論理的思考を補うもの_適切な判断に導く「身体知性」とその磨き方

論理的思考を補うもの_適切な判断に導く「身体知性」とその磨き方

VUCA時代が到来し、これまで経験したことがない未知の判断を迫られる場面は、今後ますます増加することが見込まれます。未知の判断をするときは、必ずしも根拠があるとは限らず、論理的思考だけでは通用しません。

では、適切な判断を導くためには、どのような力が求められるのでしょうか。

ThinkAboutでは、鍵は「身体知性」にあると考えています。

身体知性とは、『身体知性 医師が見つけた身体と感情の深いつながり』という本の中で、医師であり合気道家でもある佐藤友亮さんが提唱しているものです。

身体知性とは何か?
論理的判断が求められる医療の世界で、なぜ身体知性を重要視しているのか?
身体知性はどう磨かれるのか?

そんな疑問を解消すべく、佐藤さんに話を聞きました。

参考:「身体知性 医師が見つけた身体と感情の深いつながり」

分析をやりきった先にある非分析判断の領域

──「身体知性」とは一体何なのでしょうか。

身体知性とは、分析が不可能な問題や、結末が不確かな未来について判断を下すときに機能する身体の役割のことです。例えば、結婚や仕事選び、起業など、どれだけ慎重に準備しても、将来の結末を完全に予測することはできません。結末を完全に予測することのできない判断はとても重要なものが多く、人間はこのような状況での判断を、身体と、身体経由で形成される「感情」を用いて行っています。適切な判断を導くためには身体経由の感情コントロールが大切で、合理的判断を行うための身体の働きを身体知性と呼んでいます。

──科学的根拠に基づいた判断を求められる医師でいながら、なぜ佐藤さんは身体知性が重要だと感じているのでしょうか。

おっしゃる通り、西洋医学は分析・科学的態度を追求する姿勢を持っていますから、西洋医学の医師は基本的には分析に基づいて判断を行います。しかし、いくら分析的・論理的に考えても判断しきれない場面があり、その時に身体知性を用いた非分析的な判断が求められます。

例えば、救急外来で患者を診療する場合は時間的制約が多く、十分な分析的根拠がない状態で非分析的な判断を行わなければならないことがあります。そのような状況を経験することで、身体知性を磨く必要を感じました。それは、ビジネスや他の世界でも同じかもしれません。

非分析的な判断は、仕事においても個人の生活においても避けられるものではありません。仕事の場面を特に想定してお話しますが、非分析的な判断を行った後は、その判断が正しかったのかをしっかり検証して、次にいかすことが大切です。根拠がない状況で判断を行ったのはどこの部分だったのかを明らかにする。また、判断を行った時点では、利用するべき根拠がないと考えていたけれど、後になってから、判断の材料になるような根拠が見つかることはよくありますよね。

もしも失敗したときには、非分析的判断を行ったこと自体に問題があったのか、あるいは、非分析的な判断は必要だったが、それを行った自分の心身のコンディションが十分ではなかったのか。それらのことを、丁寧に考えるべきでしょう。

ただ、一番大切なのは、そもそも「AかBかを選ばなければならない」と判断を突きつけられる状況に陥らないことです。「やむにやまれない選択」というのは、多くの場合その前段階で回避できるはずで、選択を迫られている時点で後手に回っているということになります。周囲の人たち達と良好なコミュニケーションが取れていれば、大きな選択を迫られる状況を迎える前に、小さな問題として対応することができます。そうすれば、非分析的な判断を迫られるシーンはそこまで多くならないと思います。

本当の名外野手は、ダイビングキャッチのようなファインプレーをする人ではなく、事前に打球の方向を予測して、楽々と自分の正面でフライをキャッチする人なんですよね。医師もビジネスマンも、本当に優秀な人は、火事場で力を発揮する人ではなく、予め火事場を作らないように行動している人だと考えています。

そして、もう一つ大切なことは、分析的に判断できることは、できるだけ分析的に対処するということです。職業人として必要な知識とスキルを十分に身につけて、分析的・論理的に判断可能なことは、できるだけそのようにする、ということが大切です。

これは、他の人に対して、判断の理由をきちんと説明できるということでもあります。私は、分析的判断に必要な知識とスキルを丁寧に身につけていくという態度が、いざというときの非分析的判断の精度も向上させると考えています。

佐藤友亮
医学博士、日本内科学会認定内科医、血液専門医。公益財団法人合気会四段。神戸松蔭女子学院大学合気道部顧問。
1997年岩手医科大学医学部卒業。初期研修後、血液内科の診療に従事するも、白血病の治療成績に大きな困難を感じ、2001年に大阪大学大学院医学系研究科入学。大学院修了後、阪大病院の血液・腫瘍内科で、血液学の臨床と研究を行う。2012年より神戸松蔭女子学院大学准教授。2002年に、東洋的身体運用に興味を持ち、神戸女学院大学合気道会に入会。合気道凱風館塾頭として道場運営に携わる。

外のものを吸収して中のものとつなげる。開いた状態の集中

──身体知性が発揮できる状態を保つには何を意識したらよいでしょうか。

適切な判断を行うためには、心と身体の状態を整えることが大切です。しかし、「結果を出すために心と身体を整える」という意識が強すぎると、本末転倒になってしまう可能性もあります。「いい結果を出すために、自分のコンディションを整えなければならない」という考えに縛られすぎるのは逆効果ですね。人間のコンディションは、気候や、一緒にいる人、プレッシャーのかかり方等々、環境の影響を受けて、大きく変化します。自分が置かれている状況に応じて、ベストを尽くすのが大事だと思います。

とはいえ、よい結果をもたらしやすい心身状態というのは、ある程度作り出せるものだと思います。それがどういう状態かというと、「適切な外部からの入力に対して開かれた状態」です。人はどうしても自分の経験に左右されて、バイアスがかかった判断を行ってしまいがちです。自分が行う判断の過程で生じやすい「偏り」を自覚できていれば、外部からの入力を上手に利用して、自分の判断に、良質な変化を加えることができます。これは、とても大切なことです。

外部からの刺激入力を閉ざした状態では、それまでに自分自身が行った経験からの判断しかできません。外部からの入力に対して開かれた状態であれば、自分には不足しがちな情報をしっかりと取り込めます。難しい話になってしまいましたが、他人の話(外部からの情報入力)って、ついつい、自分が聞き易い話だけを、取り込みがちだということです。身体と心を解放して、いろんな情報を入力できるリラックスした状態を作ることはとても大切だと思います。

このことについて、本の中では、「ハードゾーン」と「ソフトゾーン」という言葉を使っています。ハードゾーンは、外部からの刺激を一切遮断して、自分のなかに深く入り込むことで何かを生み出していく状態。一方で、ソフトゾーンは、深く集中しているものの、周りの刺激、会話や、周囲の様子の微妙な変化など、いろんなものを吸収して、自分の中に持っているものと融合させて、より大きな発火を起こす状態です。

ソフトゾーンのことは、武道の考えに近いかたちで説明できます。例えば、武道には「主客融合」という言葉があります。これは、自分と相手が混じってしまうというような状態になると自分のパフォーマンスも上がり、大きな成果が生まれるというものです。敵味方という場面を想定していることで矛盾を感じるかもしれませんが、合気道は試合形式を取らずに、相手との共同作業で大きな力を生み出す武道なので、体感しやすいかもしれません。

真似ることの大切さ。変容し続ける覚悟

──ハードゾーンはイメージしやすいと思いますが、ソフトゾーンの感覚は経験したことがない人はイメージしづらいかもしれません。まず、何からしたらいいのでしょうか。

ソフトゾーンはイメージしづらい、というのは、その通りかもしれませんね。リラックスした状態で、自分の中にはないものを周囲から取り込んで力に変える、ということなんです。「環境を自分の力に変える」ということは、不確定要素が大きくなるようで、信用しにくい、と思う方も多いでしょう。

しかし、これは、トップアスリートや一流の芸術家、優秀なビジネスマンや医師は、とてもに大切にしている感覚です。高いレベルでパフォーマンスを行っている人ほど、「パーソナルな身体は、周囲の環境があってはじめて有効に機能する」ということを経験として知っています。

難しく感じるかもしれませんが、それほど大層なことではありません。シンプルに、「自分が想像していなかったことをやる」ということです。例えば、子どもが算数の問題を解いていて、先生や親から「こういう風にやってみたら?」と言われて、疑いながらも、自分とは違うやり方を試してみるようなものです。

これは、小さい頃から学校で言われている、「人のいうことをよく聞きましょう」とか「まず真似てみましょう」とか、そういうことに近いです。できるかできないかは別にして、そのまま真似てみる。最初は違和感もありますが、自分がやろうとしていなかったことをやるのが、自分の枠組みを超える出発点になります。違和感を感じるというのが非常に重要なことで、普段とは違うことをしているのだから、違和感を感じて当たり前なんです。そこで止めてしまわずに、普段とは異なるやり方を実践することで得られた体験が、自分の中に新たに蓄積されていくことが重要です。

周りからのアドバイスを受け入れるためには、心の余裕と元気を持ち、機嫌がいい状態を保つことが大切です。イライラしていたら、周りの意見なんて聞けないですからね。

武道の世界では、「自分の考え=自我」を捨てて、いかに目の前に集中するかが重視されます。ただ、自我を捨てるって難しい。なくそうと思ってもなくならないのが自我ですから。

一つ言えるとしたら、自我を縮小化させるには、適切に身体的な手順を踏むしかない、ということです。「意識の問題を、意識そのものを操作することによって解決する」、という方法には限界があるので、意識を操作するのとは別のやり方でアプローチしなければならないんです。いきなり心の持ち方を変えようとするのではなく、身体経由で、意識のあり方を変化させるということです。

一番わかりやすい例が、先ほどもお話した、「真似ること」です。真似るというのは、行動の出発点を自分の中、すなわち自我に置かないということです。何か行動を行うときに、自分の考えやこだわりを取り払って、マリオネットみたいに、入力された指令を淡々とこなす。これを繰り返していくと、身体主導で動きの精度が高まっていって、心の状態にもよい影響が出始めます。

身体経由での意識へのアプローチとしてよく知られているところでは、瞑想がありますよね。瞑想もまた、呼吸や身体の動きを利用して、心を整える方法です。自我を縮小化させるには、身体的な方法で、意識にアプローチすることが有効です。

──真似ることが重要になってくるとのことですが、真似る相手次第では、逆効果なときもある気がします。真似るべき人はどう見極めたらいいのでしょうか。

真似るべき人を探すときには、あまり合理的・論理的に選びすぎないほうがいいと思います。合理的・論理的に、真似る対象、たとえば指導者を選ぶ例として、西洋スポーツがあります。アメリカのプロゴルフツアーのトップ選手は、自分の技術的な課題の内容によって、コーチを選びます。これは、自分のパフォーマンスを分析的に評価して、不足する部分をコーチの力によって補う、という考え方です。

このような分析的な姿勢には、西洋医学の特徴と共通するところがあります。これは、効率的にパフォーマンスを向上させるためにはとても良い方法ですが、分析という営みが個人、すなわち、自我に立脚しているんですね。このやり方で上手くいっている間は良いのですが、分析を重視する方法では、どうしても上手くいかない場合も出てきます。

一方で、武術・武道的なアプローチというのは、できるだけ自我がのさばらないような形でパフォーマンスを行うことを大切にします。そうなると、そもそもの出発点が大切なんですね。「この人のこういうところを学んで、名人になりたい」「誰にも負けない強い武道家になりたい」ということが稽古の根幹に置かれていると、いつまで経っても個人の枠組みを超えた、超越的なパフォーマンスを行うことはできないと考えられているのです。

ここは中々難しいところなのですが、ぼんやりとでも自分が進んでいこうと思っている方向において、縁があった人を大切にする。即ち、あまり理由をつけすぎずに、縁があった人を師として持ち、その人との関係性の中で、進んでいく方向を変化させていけばいいのではないかと。あまり前のめりにならないほうがいいのではいか。

その結果、「最初に想像していたこととは随分違うけど、これで良かった」となれば、すごくいいですよね。何かを真似ようと考えるときは、変化をいとわない姿勢が大事だと思うんです。事前に考えていたこととは、かなり違うことになったけれども、縁があって、想像もしていなかった世界が目の前に開かれたとか、まったく予定していなかったことに、自分が対応できたとか、そういう、未知に対してワクワクしつつ、柔軟に対応する姿勢が、本当に知的な態度なのではないかと思います。

寿命があるAIが出たら、人間に近づくかも知れない

──最後に、テクノロジーの進歩がますます進むこれからの時代において、身体知性の重要性はどのように変わるとお考えか教えてください。

AI技術が進むことで、「分析的な判断」は行いやすくなると思います。AIは、人間と比べて膨大な量の情報扱えますから。そうなると、「人間の仕事が、どんどん奪われていくのではないか」といった話も出てきますが、私はそれほど悲観的になる必要はないのではないかと思っています。

人は様々な場面によって、分析や論理だけではない判断をする生き物です。例えば、医療の世界では、尊厳死・安楽死を話題にするときに「本人が一度安楽死を望んでも、翌日には考えが変わっているかもしれない」ということが、重要な問題として議論されることがあります。自分に残された時間が残りわずかだと分かった時に、苦痛や恐怖などの感情から、考えにゆらぎが生まれて判断がぶれる。それは決して悪いことではなく、人間にだからこそ起こる大切な出来事だと思うんです。

身体知性による非分析的判断の大きな特徴は、その人固有の身体を経由する判断なので、人が異なれば、判断の内容が異なるということです。これを「不正確」とかたづけるのは、短絡的すぎるんですね。個人の身体を経由して行われた判断は、例え周囲から見たら、非合理的で、誤っていると評価されたとしても、その人自身にとっては必要なものだと考えることも大切なのではないでしょうか。

人間らしい判断の行い方の特徴は、精度や効率とは一線を画したところに出てくるのではないかと思います。ディープラーニングなどの技術開発が進めば、AIによる論理や分析的判断の精度は高まると思います。しかしそれが、人間の移ろいゆく判断といつまでも交わらないものだとしたら、AIと人間の両方を仕事の担い手と考えたときに、どちらかだけが不要のレッテルを貼られて淘汰されることはないのではないかと思います。

AIが人間に寄り添えることがあるとしたら、あるいは、もしも仕事の担い手としてのAIが人間に取って代わることがあるとすれば、それは、「寿命を持つAI」ではないかと思います。もしも、「時間」の概念がAIに内包されたら、ゆらぎを含むような、人間に近い判断ができるようになるのかもしれません。これはある意味恐ろしいことでもあります。

テクノロジーが進歩することで、医学ももちろんそうですし、社会としては、より大きな成果を期待できます。テクノロジーの進歩は、「ゆらぎ」や、時には誤った判断をすることもある「人間らしさ」の価値みたいなものを、私たちにはっきりと理解させてくれるきっかけになるのかもしれませんね。

執筆者:THINK ABOUT 編集部
THINK ABOUTを運営するネットプロテクションズの社員によって構成される編集部です。
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