
世界的に活躍する舞踊家・田中泯。暗黒舞踏の創始者・土方巽に私淑し、既存の表現方法に囚われない踊りを続けてきた。山田洋次監督作品「たそがれ清兵衛」に出演するなど、演技でも高い評価を受けている。
特定のステージで踊るのではなく、日常の中にある「場」を感じて即興的に踊る「場踊り」など、特徴的な表現を通して踊りの根源を追求してきた彼は、カラダをどのように捉え、踊ることで何を見出しているのだろうか。お話を伺った。
「時間」や「空間」にカラダを明け渡す
ー田中さんの踊りの中で特徴的だと感じたのが、ステージではなくその「場」で即興で踊る「場踊り」でした。「場」とは時間や空間を指していると感じたのですが、場踊りはどのような発想で、どうやって踊られているのでしょうか。
場踊りは自然や街の中でやるから、場所ありきです。場所が最優先にあって、そこで踊ることによってどんな踊りが生まれるのか試みています。そのため、踊れるか踊れないか、やってみるまでわからないのが前提としてありますね。どのように踊るか決めていないので、どう始まりどう終わるのかもわかっていない。踊る場所は毎回違うし、人がいることもいないこともある。だから踊りもその都度全然違うものになります。
踊る場所は、感覚だけではなく、その土地の情報を入手して「何かありそうだな」と思ったところを選ぶようにしています。例えば造成してできた場所や地形が変化した場所など、かつてはこうだったという情報のある場所ですね。踊っていると、実際にその場所で何かが起きることもあるし、僕の頭の中で起きていることもあります。

田中泯(ダンサー)
74年独自の活動を開始。「ハイパーダンス」と称した新たなスタイルを発展。78年ルーブル美術館において海外デビュー。80年代、旧共産圏で前衛パフォーマンスを多数決行。国際的に高い評価を獲得。85年山村へ移り住み、農業を礎とした舞踊活動を現在も継続中。02年に映画初出演。以後映像界でも国内外で活動中。著書『僕はずっと裸だった』、共著『意身伝心』/写真集「光合成」MIN by KEIICHI TAHARA。www.min-tanaka.com
ーどのようなことが起きているのでしょうか。
たとえば、以前九州で、捕虜として連れてこられ、脱走して捕まった朝鮮人の墓で踊ったことがあります。墓石はなく、石ころが転がっているだけなんだけれど、そこに体を擦り付けるようにして踊っていたら無性に怒りの様なものがこみ上げてきました。
そういう風に喜怒哀楽が動かされることもあるし、踊りの要素である新しい形や動きが生まれることもあります。何も起きなくて呆然とすることももちろんある。僕自身に何が起きるかわからないので正しい回答もないんです。
ー実際に、都市の中での「場踊り」、東京芸術劇場での「舞台公演」、水戸芸術館では「中谷芙二子さんの霧」とコラボレーションで踊られている田中さんを拝見したのですが、それぞれ全く違うもので、空間自体を感じて踊られているように感じます。どうしてそのような踊りができるのでしょうか。
僕は2004年頃から、屋内外の様々な場所で即興で踊るという試みをはじめました。日本で行うとともに、誰一人として僕を知らないインドネシアの島々を旅しながら、45日間試みたこともあります。急にそんなことをやり始めたわけではなく、70年代初頭から体毛を全て剃り、ペニスに包帯をまき、カラダを土色に塗った状態になり、国内外のあらゆる場所でただ寝転がっていたと言ってもいい踊りの形を行ってきました。
その時からの経験があってこそなのですが、踊るときは「私」や「自分」と言われているようなものをカラダからちょっとどこかに置いておいて、その時間、空間、条件に対してカラダを明け渡しているような状態になる、と言えばいいでしょうか…。
大雑把にいうと、人間という生き物は、はじめにカラダが生まれ、徐々に環境と共に「私」というものが芽生えていくと考えています。それがいつ頃からと厳密には言えませんが、普段は、カラダの中にいる「私」によって、カラダの動きをコントロールしている状態だと思います。
それに対し、踊るときはカラダの中からこの「私」を外に出すというのか…。コンディションのいいとき、「私」というのは踊っている間、カラダの正面や後ろや上方から、自分のカラダを見ているような状態になります。
そういう状態になると、カラダの中に、その時間、空間、条件の中にあるいろいろなものが入って来られるようになる。それを感じながら踊ろうとしています。時に、カラダに入ってくるものによって、自分が「思う」よりも前にカラダが動き出すこともありますね。
僕は、踊りを踊っている時、「私」のない一つのカラダになることが夢なんです。
生き物として、本来のあり方を取り戻す
ーカラダの中に入ってくる色々な要素を感じて踊っているのですね。田中さんは、踊りを何をするためのものだと捉えていますか。
僕にとっての踊りは、自分のカラダを日常以上に感じ取るためのものです。
たとえば、激しく踊っている時、当然カラダはバランスとり、神経や筋肉と共に次々と動きのコントロールをしています。その最中、ふと、観客が席を立つのが視覚に入る。すると「俺の踊りはだめなんだ」とか「そんなはずはない」と脳がディスカッションを始めたり、耳が足音を聞いていたり、目がもうその瞬間とは違う別の風景を見ていたりする。カラダは、いろいろな感覚が同時に活発に動き回っているんです。そこで席を立った観客が戻ってきたら、カラダの中をさまざまに動いていた脳や耳や目が、が一斉にホッとなったりする。面白いですよね。
普段は「私」が邪魔をして、そんな風にカラダの中で起きていることを感じ取ることはできません。しかし踊ることによって、それが可能になります。
僕はカラダには、人間が人間になるまでの歴史が詰まっているんじゃないかと思うんです。本来人間は、単細胞から始まった一生物でした。普段の僕たちは、まるで「私」が思考していると思い込んでいて、自然の中に生きる一生物だということを忘れてしまっている。カラダを感じていくことで、生物本来のあり方を取り戻せるのではないかと考えています。
僕は「私」から解き放たれてカラダを感じる瞬間が、自由ですごく好きですね。その瞬間を持つことによって、一度しかないこの人生を、より豊かに生きられると思っています。
ー「私」をコントロールして自分の中から出すことで、生き物本来のあり方を取り戻す。それはカラダ感覚が研ぎ澄まされているからこそできることなのでしょうか。
これは特に踊っていなくても、すべての人間ができることだと思っています。一般的に言われる「集中」というのは、周りにあるものから自分を切り離して、音も聞こえないような状態に入っていくこと。
理想的な集中とは、その状態の先にある「覚醒」という言葉なんじゃないかな。覚醒というのは、カラダが開いている状態で、普段の自分よりも吸収力や受容力の高い状態になると思っています。
ーその状態になると、どんなことができるのでしょうか。
たとえばアインシュタインのような天才なら、そこで「光と同じ速さで僕が走ったらどうなるか」というようなことを考えつくわけです。僕達はそこまではいかなくても、いろいろなことを吸収して考えることができるようになるはずです。
人対人のコミュニケーションで言うなら、自分だけではなく、相手のカラダの持つ要素を感じ取れるようになるのではないかと思います。僕達は普段人とコミュニケーションするとき、言葉に反応してしまっていますよね。特にインターネットが普及した現代は、文字に頼ったコミュニケーションになりがちです。でも言葉には、すべてが含まれているわけではない。たとえば「自由」と言ったところで、僕が思う「自由」と他の人が思う「自由」は、きっと少し違います。その違いを感じ取れないから、コミュニケーションがうまくいかないんじゃないかな。
コミュニケーションというのは、言葉だけではない、カラダの持っている要素が重要です。世代や風土や文化、いろんな要素がありますよね。カラダの中で醸成されたそういった要素が、言葉を保証しているんです。それを全部無視して言葉の方に意識をかき集めて会話してしまっているから、トンチンカンになってしまう。
僕たちは、言葉や目に見えるものだけで他者をつついて判断しようとしてしまうけれど、見える、聞こえるものだけでは圧倒的に不十分なんですよ。こんな風にべらべら喋っている僕たちですら、喋っている一方で、喋らないでいる言葉もたくさんあるわけです。だから、口から出る言葉だけではなく、カラダの持っている要素を推し量ることが大切なんです。
覚醒状態になり、自分を相手に開いていくことで、相手の言葉だけではなく、それを発する相手のカラダの持つ要素を感じることができるようになる。そうすればもっと、お互いを信じ合えると思うのです。
それから、生物が本来持っていた感覚をもう一度大事にできるんじゃないかな。
たとえば好奇心。僕はほとんどの生き物は好奇心、つまり皮膚で区切られている一個の体の外への関心がなければ生きて来られなかったと思うんです。知らないものに出会ったとき、思わず身を引いてしまうとか、気になって一歩近づいてみるとか。そういった好奇心を人間も持っていたはずなのに、現代では自ら近づくよりも先に「これはこういうものなんだ」と説明されてしまうから、徐々に他の生き物に対して関心を持たなくなってしまった。でも本来は、互いに関心を持ち合うからこそ、周りとの関係性が成り立っていたんですよね。そういう、生き物として重要な感覚を、取り戻せるのではないかと考えています。
カラダを見習って生きる
ー最後に、田中さんが考えるカラダとの理想の関係性について教えてください。
僕が私淑していた土方巽は、危篤の知らせを受けて駆けつけた僕ら10数人全員としっかり話し、話し終えた約10分後に亡くなりました。みんな悲しんでいたけれど、病院から帰る途中に全員が「どうして全員と話してから死ぬことができたのだろう」と思ったんです。まるで、ちょうど全員と話し終えた時に自分が死ぬことをわかっていたみたいだ、と。なかなかそういう死に方ができる人はいません。
これはまさに、カラダと一緒に死んでいったと言えるのではないかと思うんです。いろいろなものが詰まっているカラダは、僕なんかが追いつかないくらいのものすごい速度で思考して、行動して、コミュニケーションしている。土方の死に方は、カラダが自分のためにしてくれていることを知っていたからこそできたことなのではないかと思えます。僕もできるなら、カラダがしてくれることを感じ取って、カラダを見習いながら生きていきたい。そしてカラダと一緒に死んでいけるような、そんな関係性でありたいと真剣に思っています。

田中泯(ダンサー)
暗黒舞踏の創始者である土方巽に私淑した、前衛的、実験的舞踊家である。
クラッシックバレエとモダンダンスを学び、1960年代にはモダンダンサーとして活躍。その後 階級的思想と第二次大戦後の世相をそのままに反映した文化、ダンス「業界」に懐疑を抱き始める。1974年、独自の活動を開始、精神―物理の統合体として存在するカラダに重点をおいた「ハイパーダンス」を展開させていく。これにより田中は当時の日本のダンス業界から距離をおき、さらに独自の踊りへの追求を深めていく。しかし同時に、この表現活動は日本、そして世界の知識人や美術作家たちとのコラボレーションへと繋がり、当時の現代美術、文化界に衝撃を与えた。
1978年、田中はパリ秋芸術祭(フェスティバル ・ドートュンヌ)に於ける「日本の『間』—時間と空間—展」(企画:磯崎新、武満徹、ルーブル装飾美術間)で世界デビューを飾る。以来30年以上、ヨーロッパ、アメリカ、旧社会主義国や発展途上国各地を含めた世界中で独舞、群舞を発表し続けている。
既存の表現ジャンル(演劇、舞踊、音楽など)を超え、生活と踊りの境界すら超えた田中の活動は、先駆的な、美術家、小説家、生命科学者、文化人類学者、民族学者、哲学者などからも傾注を受け、田中の手がけるプロジェクトは彼らとの共同調査や、社会教育、社会変容を目指したものへと発展をとげていった。こういったジャンルを超えた活動は、オペラ作品(振り付けと出演)、現存する伝統的民族舞踊、視覚的美術、建築、ランドスケープ、医学的/精神医学的科学から即興音楽との表現にまで多岐に渡る。(例:最初のオペラ活動は小沢征爾氏からの依頼による振付。このように田中の活動はそのジャンルの中でもとりわけ、前衛思考の強い人々との結びつきが多い)
それらの活動のかたわら、田中は、カラダおよび労働と自然との本質的に密接な関係に惹かれ、研究者や仲間のダンサーたちと共に郊外の山村に無農薬農場を開設した。当時40歳であった。現在も継続されているこの農業活動を通じて、「踊りは、人間の農業というカラダ活動に不可逆的に、どうしようもなく根ざしている」と、田中は確信する。
踊りの起源を巡る彼の探求心は、連綿と受け継がれさらに変遷をとげつつも現存を続ける伝統芸能・郷土芸能・民俗芸能へと向けられた。日本の伝統芸能「能楽」「落語」「浪曲」など数々のコラボレーションは言うまでもないが、日本国内にとどまらず、インド伝統芸能祭クッティヤターム(ユネスコ指定の世界最古の演劇とも呼ばれる)において、その継承者との幾度かのコラボレーションも実現されている。
また、近年では、映画やTVなどの映像への出演依頼も多い。映画初出演となった、山田洋次監督作品 「たそがれ清兵衛」(2002)では、日本アカデミー最優秀新人賞、最優秀助演男優賞を受賞し、NHK大河ドラマやドキュメンタリー番組のナレーションなどにも表現の域を広げている。2013年にはハリウッド映画にも進出している。
田中の、「踊りの起源」への絶え間ない調査と堅固なこだわりは、日常に存在するあらゆる場に固有の踊りを即興で踊るというアプローチによって、「場踊り」という形で、より実践への根を深めている。「場踊り」は日本および世界各地で現在進行形で繰り広げられている。
ダンス・ロードムービー『ウミヒコヤマヒコマイヒコ ~田中 泯ダンスロードインドネシア~』(https://goo.gl/cm5tAk)
書籍『僕はずっと裸だった』(https://goo.gl/8WwXV4)