
社会の変化を牽引するリ・ジェネラティブな都市のあり方とは?【vol.3】
次世代の思想を探求し、社会に実装するための領域横断型サロン「Ecological Memes(エコロジカルミーム)」発起人の小林泰紘氏が見据える、これからの都市のあり方とは? 最終回となる今回では、人々のパラダイムを支える精神のインフラとしての都市の姿を考える。
Words Yasuhiro Kobayashi @ BIOTOPE Photo Steve Russell/Toronto Star via Getty Images
感度の高い若者たちを惹きつけるリバブル・シティ
都市がどのように生まれるかというのは、突き詰めれば人の群れ方であり、そしてそれは時代の価値観とともに変わっていく。では、人の動きや知の集積の仕方は、これからの時代どのように変化していくのだろうか? 前回はリバブル・シティ(=住みやすいまち)として発展するインドのプネに言及したが、スウェーデン第三の都市、マルメもそうだ。
スウェーデンとデンマークの国境近くにある、人口30万人弱のまちに、スローで落ち着いた暮らしやレベルの高い起業環境を求めて、感度の高い若者や起業家たちがヨーロッパ中から集まっている。
マルメ大学をはじめ、マルメ市が運営するスタートアップ拠点「MINC(ミンク)」や、メディアやデザインを中心にデジタルイノベーションハブとなっている「Media Evolution City(メディア・エボリューション・シティ)」などがコンパクトなスタートアップのエコシステムを形成し、人口1万人あたりの特許数は世界でもトップクラス。OECD(経済協力開発機構)の「world’s fourth most inventive city」にも選ばれている。
その源泉にあるのが、住民が170カ国の出身者で構成されるという驚くべき多様性だ。まさに世界の縮図ともいえるこの内訳は、30%強が外国生まれ、約半数が35歳以下。そして、徒歩圏内に機能を集積したコンパクト・シティであり、空港へ20分、コペンハーゲンへも電車で40分とアクセスも良好だ。
規模が小さい分、まちの変化や移行(トランジッション)も早く、コーヒーから始まったオーガニックブームは、あっという間にフード全般に広がり、いまではレストランやカフェはローカルでサステイナブルでなければ(人々が買わないから)成り立たないという。
何よりも、まちの魅力は、その心地よさ。中世の歴史を感じさせる愛らしい街並みに、心地よい時間がゆっくり流れ、駅を降りた瞬間に「なんだか、このまちいいな」と感じてしまう居心地のよさがある(一方では、経済格差は世界的な平均よりかなり高いなど課題も多いのだが……)。
過度の競争社会や、忙しない生活ではなく、スローで落ち着いた暮らし、人として豊かな暮らしができそうな感じがするまちなのだ。

マルメの愛らしい街並み。ゆったりとした時間が流れる。
日本だと、博多がそれに当たるだろう。僕は以前、博多のまちづくりプロジェクトに携わった経験があるのだが、博多のすごいところは、IT起業家からタクシーの運転手まで、誰もが口を揃えて「暮らしやすいまち」だと話すことだ。実際、東京や大阪の満員電車通勤がイヤで、職住隣接でのんびり暮らせそうな博多に移住したという若手の社会人に何人も出くわした。
博多の住みやすさは、海山川が近くにあり、食も美味しく、自然との接点が多いという環境要因も大きいとされるが、それが経済発展のなかで壊されることなく維持され続けてきたのには、歴史的背景がある。
博多は一級河川がないなど水資源に乏しく、工業化に失敗したこともあり、早い段階でサービス化へと舵をきることになったのだが、それに伴い1976年の第4次福岡市総合計画のなかで「成長を制御するシステムをもつ都市」「成長を自立・自制する仕組み」といった言葉が使われている。時代は高度経済成長期、他都市がガンガン工業化・経済成長を進めている真只中であることを考えれば、これは衝撃的なことだといえる。伸び代があっても成長させない、開発を進めすぎないという、当時の福岡市の先進的な決断が現在の博多の持続可能な成長や暮らしやすさの礎をつくったのだ。
有機的で多様性をもった、生態系として繁栄するということ
こうしたリバブルな都市のあり方を探るなかで見えてくる本質は、急速に発展させず、スピードを落として有機的で多様性をもって繁栄する都市の姿だ。
一般に都市計画と呼ばれているものは、19世紀以降の産業革命・近代化のなかで(日本だと明治維新以降)生まれた概念である。つまり、“人口増加・都市拡張により、起こっていく住環境悪化と無秩序な市街化などの都市問題をいかに解決するか”というのが暗黙の前提にある。
だが、この前提に基づく都市づくりは、これから限界を迎えていくことだろう。これは人口減少期に入っている成熟国についての話だけではなく、中国・インドやアフリカ諸国など、今後もある程度、人口増加・経済成長が見込める国であっても同様である。特に、ミレニアル世代以降を中心に、規模や物質的充足のみを求める価値観は薄れつつあるからだ。
そうしたなかでは、産業革命以降の規模や効率を追求するのとは別の都市の在り方、もっといえば、近代化の過程で無意識に切り離されてきてしまってきた、自然との関係性や内面的な充足、生き物としての人のウェルネスやつながりを取り戻すような都市や群れ方の再考が必要なタイミングに差し掛かっているのだと思う。
最近では、グーグルの関連会社がカナダのトロントで仕掛ける「Sidewalk Labs(サイドウォークラボ)」なども、テクノロジーを駆使しながら人間中心の思想でスマート・シティが設計されて始めているというが、スマート・シティが何をもって“スマート”なのかは、近い将来、きちんと向き合う必要があるだろう。
これまでの人間中心の都市思想が、経済活動の主体として“人間”をとらえていたとするなら、これからは生き物として、あるいは生きる主体としての人間をとらえていくことが重要になっていくのではないだろうか。

さまざまなつながりを取り戻すような都市の在り方が問われているのかもしれない。