パンデミックの歴史が見せる未来の姿【vol.2】

パンデミックの歴史が見せる未来の姿【vol.2】

米ジョンズ・ホプキンズ大学のまとめによると、世界全体の新型コロナウイルスの感染者数は日本時間5月3日午前3時の時点で339万2,771人、死亡者数は24万1,193人となった。だが、人類と感染症の闘いは今に始まったことではない。歴史学者の三石晃生氏が2回にわたり、これまでの史実からウィズ・コロナ、アフター・コロナの時代を読み解く。

Words Kosei Mitsuishi Photo: Francis G. Mayer/Corbis/VCG via Getty Images

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人類史上最悪のパンデミック

スペイン風邪はまさに近現代的な伝染病であった。大規模な遠隔地への高速移動が、ウイルスを瞬く間に世界中に拡散させてしまったのだ。しかし、同様のパンデミックは14世紀にも起こっていた。それが大黒死病・ペストである。

1918年のスペイン風邪は最低でも5,000万人以上が亡くなったと推定されているが、14世紀に蔓延したペストは世界全体でそれを遥かに上回る7,500万人から2億人の死者を出している。当時8,000万人だったヨーロッパ人口のうち、実に60%が命を落としたのである。

ペストは歴史上、無数の頻発のほかに3回の大流行が起こったが、なかでも1347年から1352年にかけての史上最悪のペストは「黒死病」として知られている。

このペストのパンデミックは、1346年にモンゴル軍(キプチャク・ハン国)がクリミア半島のカッファ(現フェオドシア)という黒海最大の港湾都市を攻撃したことから始まった。カッファは北イタリアのジェノバの植民都市であり、黒海のイタリア交易の中心地であった。

いざ攻めてみるとカッファの守りは固く、数週間の膠着状態が続いた。この戦いの最中に陣営内でペストが発生し、モンゴル軍は撤退を余儀なくされる。その際にペストで死んだ遺体を投石機に乗せて、遺体を城壁の中へと飛ばして退却したといわれる。ペストは感染拡大が早く、そのうえ死亡率が高いためにバイオテロに使用される危険があると現代でも各国で警戒されているほどだ。

ペストは瞬く間にカッファ城塞内で感染拡大し、ジェノバ商人たちは疫病から逃れるためにイタリアへと逃げ出した。ペスト菌とともに。

ペストを積んだ船は交易拠点であるコンスタンティノープル、シチリア、サルディニア、ジェノバ、マルセイユへと寄港した。その港はどれも交易の中心地であったため、それら主要港湾からヨーロッパ全体にペスト菌が拡散していった。

ヨーロッパだけではない。コンスタンティノープルからエジプトのアレキサンドリア経由で北アフリカ、中東にまで達した。唯一、ペストを免れることができたのは、人口が少なく往来もなかったフィンランドとアイスランドだけであったといわれている。

こうして高度に発達した交通網にのって、ペストは瞬く間に全ヨーロッパへと広がっていったのだ。

このペストは人口が激減するだけでなく、ヨーロッパ世界の社会構造の変化を「加速」させることになる。

教会は食い止めることができなかった

当時のヨーロッパでは、疫病は神が下した罰とみなされていた。神が疫病によってその人の悪を裁いたのだと考えるのが一般的であり、ペストに罹ったことは自業自得の結末、悪徳の証明であった。そのためペストは当初、「だから教会の言うことに背いてはならない」という教義的プロパガンダに利用されもした。

ペストが瞬く間に各地に広がり莫大な病死者を出すようになると、人々の間で釘つきの鞭で自分を叩き続けるという集団ヒステリーが発生し始めた。当時の教皇、クレメンス6世はこの行為を公式に禁止、それを行う者を破門にした。クレメンス6世は「比較的」よく決断ができた教皇だと評価できる。鞭打ちが公式に禁止されると、この集団ヒステリーは陰謀論へと転じていった。「ペストはユダヤ人が毒を井戸に投げ込んだために起こった」のだとする噂がヨーロッパ全土に広まっていったのだ。

もともとペスト以前からユダヤ人は迫害されていたのだが、ペストによって拍車がかかり、公然の大義を与えるかたちになってしまったのである。教皇はこの反ユダヤ主義運動を止めるよう大勅書を発布したが、フランス・イタリアの一部地域にしか実効を納めることができず、ほかの地域ではユダヤ人狩りが依然として横行し続けた。

教会はペストに対して何ができたであろうか。

神の代弁者である教皇・クレメンス6世は神に祈って赦しを乞うたが、それでペストが鎮まることはなかった。教会はさまざまな勅書を出したが、対処的なものに止まり、予防や拡大防止に対する実効的な施策を打ち出すことができなかった。クレメンス6世はついに万策尽き、ペストから逃れるために教皇庁のあったアヴィニヨン(この当時、ローマではなくフランスのアヴィニヨンに教皇庁があった)から避難してしまう。疫病が教会の人間を避けて感染することなどという奇跡はないのだ。聖職者もまた「悪徳の証明」であるはずの疫病に感染して死んでいった。

人々が直視を避けていた教会権力の存在意義と疑念が、ペストを契機にして白日のもとに曝されてしまったのである。

パンデミックは社会を変えられない

一般に「ペストが封建体制を崩壊させた」と説明されることが多いが、それは正しい言い方ではない。そのころすでに、封建体制は崩壊しかけていたのだ。

ペスト大流行以前、ヨーロッパ社会は限界に達していた。農奴と呼ばれる人々に対して貴族領主や教会などが土地を貸し付け、その対価として地代を納めさせる「荘園制」という経済システムの全盛期であった。ペスト以前の13世紀に地代は高水準に達し、農奴たちは生産効率を無視して次々に周辺の新領域へと耕作地を広げていった。拡大した耕作地を維持するための労働力はといえば、自分の子どもたちである。多ければ多いほどに生産力は上がる。こうして数世代を経て人口は最大限まで膨張していった。

しかし生産力の限界まで人口を伸ばしたために、少しの天候不順や不作が起これば深刻な飢饉に陥る極めて不安定な状態になってしまっていた。現に1315年から17年にかけて大飢饉がヨーロッパを襲っている。既存の社会システムの耐用年数が、もはや限界を迎えてしまっていたのである。

1347年、そこに大黒死病・ペストが到来する。

ペストの大量死による人口消耗は人口復原力を上回り続けた。人口が激減したことが社会に影響を与えたのではない。度重なるペストの波によって、それが長期化・慢性化したことが社会変化の必要を「加速」させただけである。

人口減少によって希少になった労働力は、当然ながら価値が高騰する。そこで領主は荘園維持の労働力確保のために、土地代や税金を免除するなどの待遇改善を図った。しかしその一方で、1337年から英仏間で続いていた百年戦争とペストによる追い打ちで困窮しきった領主は、フランスでは農業労働力に対して領主支配力の強化を行い、イギリスでは重税を課すなどの政策を実効してしまった。

その結果、同じような時期にフランスではジャック・リーの乱、イギリスではワット=タイラーの乱(ピーザント・リボルト)という大規模な農民反乱が勃発してしまうのである。

ふたつの反乱は鎮圧をされたが、このあと両国の運命はまったく違ったものになっていく。

フランスでは、王が経済再建に行き詰まった貧困領主を支援して封建制を再建させ、弱体化した領主を取り込むことによって自らの権威を高めていった。この王権が、フランス絶対王政へと連なっていく。

一方、イギリスでは農民反乱を予防するために領主の農民支配は急速に弛緩する。その領主層はやがて王位継承を巡る内乱(バラ戦争)で断絶・衰退していった。その代わりに新たなジェントリ層や商人層が政界に参入し、イギリス的な脆弱な絶対王政が確立されていくことになる。

このように、ただ単純にパンデミックによってのみ社会が変化したわけではないことがわかる。社会は潜在的に構造転換を必要としていた。イギリス・フランスのジャック・リーの乱、ワット=タイラーの乱(ピーザント・リボルト)という大規模蜂起という民衆の積極的行動が、構造変化を加速させたのである。社会構造の変化は、パンデミックを「耐え抜いた」後に自動的にご褒美として付いてくるようなものでは決してないのである。

ポスト・パンデミックと創造的時代

イギリス・フランスと概観してきたが、ペスト被害の最も深刻な地域のひとつはイタリアだった。フィレンツェ市の人口9万人のうち4万人余が、シエナ市とその周辺人口9万人のうち約80%にあたる8万人の人口がペストによって喪失している。

ペストがルネサンスという創造的時代を形成したとする言質を多く目にするが、そのような単純なものではない。12世紀のイスラーム文化との接触や、14世紀初めの商業都市の繁栄、1453年に古代ギリシア・ローマ研究が発達していた東ローマ帝国の滅亡(ギリシア人の知識人が書物と知識を携えてイタリアに亡命してきた)などの諸要素が偶発的に絡み合った結果なのである。無論、ペストも不可欠な要素のひとつであるが、「ペストがきたからルネサンスが起こった」というわけではない。

そもそも、ペストとルネサンスの間にはかなりのタイムラグがある。イタリアを襲ったペスト大流行の第一波は1347年から1352年にかけてのものだが、初期ルネサンスのギベルティ(ドナテッロの師)とブルネレスキがサンタ・マリア大聖堂の洗礼堂の門扉を製作するコンクールで競い合ったのは1401年のことであるし、ダ・ヴィンチが誕生するのは1452年である。

ペストと向き合うための1世紀の歳月が、人々には必要だったのだ。

ペスト以後の絵画として、聖職者や王らが踊る骸骨と一緒に描かれた『死の舞踏』というモティーフがある。イタリア地域では『死の舞踏』よりも『死の勝利』という骸骨があらゆる階級の生者を討ち倒していくという、より陰惨で暗い絵画が多く描かれた。

 

1445年に「死の勝利」の様式で描かれたスクラファーニ宮殿(パレルモ)のフレスコ画。現在はシチリア州立美術館所蔵。Photo by Werner Forman/Universal Images Group/Getty Images

これらの絵はすべて、ペストのパンデミックの最中に描かれたものではなく、いずれも1世紀以上経った15世紀以降の作品である。
ペストの最中は、町中に死体が積み上がり、野犬がそれを食い荒らしていた。またフィレンツェでは暴行や押し込み強盗が頻発した。家庭ではペストに罹患する恐れから、家族同士を見捨てねばならなかった。当時、息や視線からペストが伝染していくと考えられていたためである。家族が罹患すれば、目も合わせず、顔を背けて遺棄しなくてはならない。疫病は、人間関係を跡形もなく溶かす溶解剤であった。

その反動からか、黒死病を経たルネサンス期には聖母の絵画表現にある変化が現れる。ルネサンス以前の聖母マリアは、口を固く結び、玉座に座って天界に君臨する峻厳な母として描かれた。1310年にジョットが描いた『荘厳の聖母』などはまさにそうである。しかし、ペストを経たルネサンス期には聖母の表情が慈しみの面貌に変わっている。この記事の冒頭に掲げたリッピの『受胎告知』の絵も、告知を受けて我が子への愛情の眼差しを向けている。

ルネサンスの重要なテーマは「人間の愛情」であり、パトロンたちも受胎告知や聖母子のモティーフを好んで芸術家に製作させた。ペストに罹患して泣き叫ぶ子どもを親が顔を背けて見殺しにせざるを得なかった陰惨な体験と後悔が語り継がれ、聖母マリアや聖母子像の表現に影響を与えたのかもしれない。

明るく愛情に富んだルネサンスを花とするならば、「死の舞踏」「死の勝利」は地に隠れて張り巡らされた根である。リッピの『受胎告知』は1450年、上に掲げた『死の勝利』は1445年、同時期に描かれるべき内容とは到底思えない。作者未詳の年代記である『パリ一市民の日記』(1405-49)によれば、1424年にサン・ジノサン墓地に「死の舞踏」が描かれたとするのが、死の舞踏の初出である。

すべての元凶であるペストを芸術家が絵画作品の主題とするためには、そして人々がペストを絵画として受容できるようになるまでには1世紀もの間、自省と反芻を経て内化していく消化時間が必要であった。

人間の物理的な死や既存社会の機能不全という「死」を凝視し、人間存在の脆さに嘆き、失った人間性に気が付くという内省の1世紀を経て、人間本来の精神を解放し、人間の在り方を再考しようとする創造的な文化運動「ルネサンス」が花開くのである。

ウィズ・コロナ、アフター・コロナの時代

そして現代、我々はいささか驕慢になっていた。自分たちが史上最高なのだという驕りである。

例えばペストを歴史で学んだときも、蒸留酒を飲むだとか、タマネギを食べるだとかいった非科学的な治療法を馬鹿にして嘲笑っていた。彼らだとて、汚れた空気が病を引き起こすという「瘴気説」という当時の医学理論に依拠してのことである。

ペストの危険から逃れるために蜘蛛の子を散らすように各地に逃げていった人々に対しては、そんなことをするから感染拡大するのだと思っていた。

ペストはネズミに寄生したノミを媒介として感染する。そんな不衛生な生活をしているからだと「自業自得」のように思ってはいなかっただろうか。では、現代の我々自身に翻って省みるとどうだろうか。

人類が押さえ込みに成功したと思っている結核だが、2016年には「治療薬の効かない」多剤耐性結核菌で約50万人が感染している。WHOも指摘する通り、油断ならない。

2014年の夏には、エボラ出血熱はアフリカからイギリス、アメリカ、イタリアにまで広がった。終息宣言を出す2016年の2年間の間に世界で2万8,616人が感染し、1万1,310人が死亡した。こうした病がいつ広がるかはわからない。そして200年後の未来からみれば、右往左往する我々の姿は、我々が黒死病に対してみるような無知による「自業自得」と映るのだろうか。

現代の我々の生きる時代は最早、完新世ではなく、人新世(anthropocene)である。人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与えるようになった世界を表す、想定上の地質時代である。

それまでの更新世や完新世は地球環境が人間に影響を与える時代であった。しかしこの人新世は、人間活動が地球環境に影響を与えるのみならず、人間自身に重大な影響を与えている時代である。実際、アメリカのハリントン心臓血管研究所のSanjay Rajagopalan氏は、2010年に「心臓病や脳卒中の既往があるなど高リスクの人は大気汚染への曝露を避ける必要がある」と報告しているし、2016年には米ハーバード大学T.H.チャン公衆衛生大学院のElissa Wilker氏らの研究者チームが、オゾン汚染による曝露により一部の脳出血(頭蓋内出血)を発症するリスクが高まる可能性があることを指摘している。また同研究所は、新型コロナウイルスとPM2.5との相関関係についても報告しており、我々は生物としての人間を意識したうえで地球環境との協調・共生の方向へと真剣に取り組まねば、人類は絶滅していく可能性がある。

アフターコロナについて多くの人がそれぞれの意見を述べている。しかしどれもが受動的である。ここで受難した分だけ福音があるのだ、と心のどこかで期待している。
しかし歴史はそれでは社会は何も変わらないことを、例示をもって教えている。新型コロナによって新しく起こったことなどひとつもない。すべては潜在的に存在しており、それが「加速」し、「露呈」したに過ぎないのだ。

これまで我々は、テストの最中だっただけだ。それが今、答案として返ってきただけである。

次のテストで良い点を取りたいのならば道はひとつだ。間違えた箇所を見直して、何を間違えたかを理解し、改めることである。

我々人類は、甚大なる人命の損失と莫大なる経済的マイナスを対価にする以上、それらを良き気付きにする義務がある。

 

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三石晃生
歴史“論”者/株式会社goscobe 代表

1980年、英領香港生まれ。2017年に実証史学の分析手法を用いたアジア初の歴史コンサルタントファーム「株式会社goscobe(グスコーブ)」を日本に設立。佐宗邦威氏が率いる株式会社BIOTOPE・外部パートナー、金沢の老舗酒造・福光屋顧問などを務める傍ら、大型国家プロジェクトやハリウッドアニメーションに歴史アドバイザーとして参画。

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