
日本の大人は、子どもから尊敬されない?
OECD(世界協力開発機構)が2018年に186カ国の中学生2万人に「親や教師を尊敬していますか?」というアンケート調査を行った。その結果、日本では尊敬していると答えた人が20.2%。結果は世界最下位の186位だった。ここまで子どもが大人を尊敬していない理由は何なのか? この問題とどう向き合っていくべきなのか? 歴史論者の三石晃生さんが、株式会社SPACE代表の福本理恵さんに話を訊いた。
Words Kosei Mitsuishi ,Miyako Ebata Photos Tohru Yuasa
その問いを、株式会社SPACE代表の福本理恵さんに訊いてみようと考えたのは、わたしが東京大学先端科学技術研究センターと日本財団が協同で行っていた「異才発掘プロジェクトROCKET」で、日本史担当の外部講師として彼女とご一緒したことがきっかけだった。
福本さんは2014年のROCKET立ち上げから、既存の常識とは一線を画す「新しい価値を生み出す素質」を育み続ける、このプロジェクトの運営全般をリーダーとして牽引してきた人物である。
社会においてさまざまな課題が噴出し、限界を迎えつつある現在、必要とされているのは従来とは異なる行動や視点である。福本さんが新たに始動したSPACEは、学校現場や職場での画一的な評価では測ることができなかった可能性の最大化に挑んでいる。そうした彼女なら、何かヒントを与えてくれるのではないか――秋が深まったある日、都内の彼女のオフィスを訪ねた。
大人の役割が突きつけられる時代
大人への尊敬が薄れていることは、子どもが大人になることへの憧れが失われていることと関連する。これにはインターネットの普及もひと役買っている。これまでさまざまなことを教えてくれた「知恵と経験」の総体であったはずの大人が、インターネットの普及とともにその存在感が薄らいだことは否めない。大人がネット検索をしても、子どもの検索結果とさほど変わらない。大人の知ったかぶりを、子どもがネット検索で知ることになるのである。
福本さんは、大人が子どもよりも知識をもっている必要はなく、むしろ答えを子どもと一緒に見つけていくことのほうが重要な役割なのだ、と語る。無知は知の始まりであり、そのこと自体は何ら恥ずべきことではない。子どもと一緒になって知を探究する大人と、子どもに対して知ったかぶりの知識で征服しようとする大人――果たして、子どもはそのどちらを尊敬に値すると考えるだろうか?
子どもたちが大人を尊敬できない、大人になりたくないと思う大きな理由は、我々大人が「何かをやってみたい」というワクワクとした欲求や探求心をもち続けている姿を見せられていないからではないか。
大人になると、自らの探求心に蓋をし、目を輝かせることが少なくなり、必要なことしか選ばなくなってしまう。でも、ふと立ち止まって考えてみてほしい。その「必要なこと」とは、いったい誰にとっての必要なのだろう……。
福本さんは「自分を優先しましょう」と言う。自分ではなく、他者にとっての必要性が最優先になることは、一見すると美談に思える。しかしそれは同時に、自分の幸福を蔑ろにしてしまうことをも意味している。他人の役に立つ以前に、自分が幸せになることを考えられないと、他者に否定されたり、称賛が得られないときに「他人から必要とされていない」と感じ、「生きている価値がない」という虚無感に陥りやすい。このことは日本人の高い自殺率とは決して無関係ではないだろう。
だからこそ、好きなことを探求し、没頭することが大事なのだ。興味の探究・没頭によって自己の幸福の在りかがわかるかもしれないからだ。
将来に対する見通しが立たず、「何者にもなれないのではないか」という不安感も人を苦しめる要因のひとつだが、福本さんは「人は生きている間、“何者か”を探し続ける生き物ですし、社会が想定する“何者か”になる必要はまったくないと思います」と、明るく答える。
つまり、他者によって決められたゴール設定に合わせていくのではなく、自分に合ったものを探していくことこそが学びであり、その過程や結果が何かの役に立たずとも、誰かの役に立たなくともまったく問題ではない、と言うのだ。
彼女は、大学院を辞めて祖父と生活していた時間をこう振り返る。「何も要求されない、何者でなくても良い、それでも存在していて幸せでいる。当たり前に繰り返される、何も生み出していない時間があっても良いと思えたことが、自分にとってとても重要だったと思います」と。
学びの転換点にいるわたしたち
大人と子どもは、なぜ世代間の軋轢を生んでしまいがちなのだろうか? 大人は自分たちが経験してきたことを、同じように子どもたちに求めてしまいがちだが、生まれながらにそれぞれがもつ興味や個性は異なるということを、そろそろ大人は認めなくてはいけない。同じ個性はないのだから、問題解決の方法も多様性と独自性に富んでいるはずなのだ。
ROCKETでは、子どもたちの多様な「ありのまま」を認める一方で、「ありのまま」は大人のお膳立てのなかでは存在し得ないことを子どもたちに肌で経験させてきた。ありのままとは、社会の営みのなかにしか存在しない。ありのままの好奇心から何かを自ら実現していくためには、自らがアポイントメントを取り、交渉をするしかない。主体性こそが自己実現の第一歩なのだ。
そうしたやりとりのなかで、子どもたちは自己責任や自己決定のやり方を経験していくのだが、大人が代わりに交渉をし、決定し、危険を排除してあげることは、子どもたちのそうした重大な学びのチャンスを摘み取ってしまうことになってしまう。