
多様化する性と「ノンバイナリー」という概念
アーティストの宇多田ヒカルさんがインスタライブで言葉を口にしたことから話題になった、第三の性を指す「ノンバイナリー(nonbinary)」という言葉。しかし、この概念をきちんと説明できる人はまだ少ない。ニューヨーク在住の文筆家・佐久間裕美子が多様化するジェンダーにまつわる表現を解説する。
Words Yumiko Sakuma Photo Erik McGregor ,LightRocket via Getty Images
最近、日本でも「ノンバイナリー」という言葉を耳にすることが増えた。宇多田ヒカルさんが6月の「プライド月間」(LGBTQ+)に「ノンバイナリー宣言」したことで初めて耳にした人もいるかもしれない。「バイナリー(二項的)ではない」という概念を理解するために、わたし自身も、当事者たちの発信から学ぶ日々であるし、「わかっている」と胸を張って言える立場にはない。当事者のストーリーに触れるごとに、一人ひとりさまざまなかたちがあるのだと知るし、 「バイナリー(二項)ではない」を意味する言葉を明確に定義しようとするほど、その言葉がもつ広がりがこぼれ落ちるような気もしている。
そもそもわたしたちの社会は、人間というものが、「男」か「女」というジェンダーの二項目のどちらかに明確にあてはまる、そして、人間は、自分と異なる性別に魅力を感じる、という異性愛を前提に基づいて設定されてきた。1960年代から70年代にかけていわゆるゲイ解放運動が起きたときに、生まれたときに与えられた性のカテゴリーと自己認識が違うトランスジェンダー(transgender)が、レズビアン(lesbian)、ゲイ(gay)、バイセクシャル(bisexual)に加わって運動に参加した(これがのちに「LGBT」となって、魅力を感じる対象で規定する区分と、ジェンダー自認を規定するグループがひとつのグループにまとめられたことは、混乱と齟齬にもつながってきたという点は留意してほしい)。
異性愛だけが愛/性的指向のかたちではないことが理解されると同時に、それまでの明確なジェンダーの二項区分にあてはまらない人たちがいるという理解が広まる流れのなかで、特に1980年以降、「ジェンダークィア(genderqueer)」という言葉が登場し、これが近年になって「ノンバイナリー」という言葉に進化した。「バイナリーではない」という概念が「第三のカテゴリー」と説明されることがあるが、「男」「女」と明確な定義にあてはまらない、または違和感を感じる人々のグラデーションは当たり前ながらひとつではない。
代表的なものとしては、「エイジェンダー/ジェンダー・フリー(agender/gender-free)」のように性別を自認しない人もいれば、両方のジェンダーの認識をもったり、両方のジェンダーに沿ったミックスな行動を取る「バイジェンダー(bigender)」、ジェンダーの認識が流動的な「ジェンダーフルイッド(gender-fluid)」などがあるが、2017年にアメリカのメディア「リファイナリー29(REFINERY29)」が読者に「ジェンダーについて自己認識のある言葉」を募ったら85単語集まった、というエピソードがあることが示すように、ノンバイナリーという性別の認識のかたちは想像以上に多様である。そしていま、UCLA(カリフォルニア大学LA校)で性自認や性的指向を研究するウィリアムズ・インスティトュートが今年発表した調査によると、いまアメリカのLGBTQを自認する人口のおよそ11%にあたるおよそ121万人が、ノンバイナリーとの自己認識をもっているという。
人は生まれたときに「男」「女」という性別をあてがわれるものだけれど、それが自分の認識と一致するとは限らない。与えられたジェンダーロール(役割)に違和感や苦痛を感じたり、与えられた役割を果たすことができずに苦しむ人もいる。ジェンダーのかたちがより多様に、グラデーションを増やしている背景には、ジェンダーというものは、自分で選んでよいものであり、年齢を重ねたり、社会生活を送る過程で流動することもある、というのが最新の認識だ。

イギリスのシンガーソングライター、サム・スミスは、2019年3月に自身のジェンダーを「ノンバイナリー」だと宣言。カミングアウトすることで自分の身体イメージに満足するようになったという。Photo by Toni Anne Barson/FilmMagic
ノンバイナリーを公表する有名人には、ティルダ・スウィントン、シャネル・モネ、サム・スミスなどがいる。サム・スミスのように性的指向はゲイだけれど、プロナウンはtheyという人もいれば、トランスジェンダーとしてカムアウトしたエリオット・ペイジは、heのプロナウンを選択し、ノンバイナリーを自認している。

東京2020大会では、五輪史上初めて男性から女性への性別変更を公表したトランスジェンダーの女子選手が出場。また、自らが性的マイノリティであることを公表したアスリートは過去最多の183人になった。Photo by Xavier Laine/Getty Images
こう書いていくと、バリエーションの多さに混乱する向きも少なくないに違いない。ひとついえるのは、これまで「LGBTQ」と分類分けされてきた性のカテゴリーは、現在の性や性別のあり方を説明するうえでとっくの昔にまかなえなくなっていた、ということだ。最近では、より多様でグラデーションを表現する「SOGIESC」(ソジエスクと読む)という言葉がある。セクシャル・オリエンテーション(Sexual Orientation:性的指向)、ジェンダー・アイデンティティ(Gender Identity:性自認)、ジェンダー・エクスプレッション( Gender Expression:性表現)、セックス・キャラクタリスティック(Sex Characteristic:身体の性的特徴)からなる言葉であるが、この組み合わせを考えたら、性のあり方は無限にある、ということは理解いただけるかもしれない。
欧米では、いまプロフィールや署名の名前のあとに、「she/her」(女性認識)「he/him」(男性認識)「they/them」(ノンバイナリー認識)といった「プロナウン(代名詞)」を書くことが慣例になりつつあるが、これもそうした動きを反映している。例えば、アメリカの媒体に取材を受けると「プロナウンは何ですか?」と聞かれる。わたしについて文章を書くときに、初出に名前を使ったあと、主語を「she」とするのか「he」とするのか、または「they」とするのかは自分が選ぶ。
自分自身、幼少期は男性らしく振る舞っていたこともあるし、女性性から逃げまどった時期もあった。セクシュアリティは「ストレート」ではないが「バイセクシュアル」と呼んでいいのかも自信がない。「プロナウンは何ですか?」の答えはいまのところ「she」にしているが、それが本当にそうなのかも自信がない。けれど、いま無限に広がりつつあるジェンダーのかたちは、「それでもいいのだ」と言ってくれているようでもある。
こうした急激に変化するジェンダーのあり方は、当事者たちが声をあげたことをきっかけに、社会がこれをサポートするかたちで変容が進んできた。そんな性の多様化に合わせて、いま文化やファッションの現場で起きているアップデートは興味深い。ファッションの世界では、ノーマカマリがジェンダーレスなブランドとして再出発し、マーク ジェイコブスやグッチはジェンダーのないコレクションを発表した。これまで女性のアイテムだとされてきたスカートなどを取り入れるメンズのブランドがあれば、最初から性を限定しないブランドが生まれている。
広告の世界には、トランスジェンダーやノンバイナリーのモデルがようやく場所を与えられ、ポップカルチャーに描かれる描写のバリエーションも増えてきた。まだ多くの場所で、商品は「男もの」「女もの」に分かれているが、誰が何を買うかは、必ずしも買い手のジェンダーとは一致しない。ナイキのショッピングアプリは、初期設定の際に、これまでの買い物でメンズの服が多かったか、ウィメンズの服が多かったのかを聞いてくれる。どちらも買う場合は比率を尋ねられる。

人気トップモデルとして活躍するノア・アルロスは、男性でも女性でもない「ノンバイナリージェンダー」であることを公表している。ウィメンズが中心だが、オファーがあればメンズファッションも着こなすという。Photo by Peter White/Getty Images
一方で、やはり法的なシステムのアップデートは遅れがちだ。国際的には、オーストラリアが2003年にパスポートの性別に「X」というカテゴリーを追加して以来、徐々にジェンダー分類を増やす国が増えてきたが、アメリカでは、ノンバイナリーを自認する市民が国務省を訴えて勝訴したことで、初めてパスポートで「X」分類を選ぶことが可能になった。より一般的に使われる身分証明書/免許証は、州ごとの管轄だが、2016年にオレゴン州が導入して以来、カリフォルニアを含む8州が法的に「ノンバイナリー」または「X」のカテゴリーを導入し、現在、その他多くの州で導入が検討されている。こうした状況に、シティバンクやマスターカードが「トゥルーネーム」というプログラムを導入し、利用者が、法的な名前にかかわらず、名前を選ぶことのできる制度を導入した。
コロナによる約1年半の隔離生活を経て、久しぶりに日本に帰国して気がついたことがある。新しいサービスに登録するとき、何かを購入するとき、とにかくやたらと「性別」を選ばなければいけない。たまに「選びたくない」「あてはまらない」「どちらでもない」などといった第3のオプションが提供されることもあるが、それはまだまだ稀少である。選んだ性別によって出てくる広告が影響を受けるところを見ると、ジェンダーを選ばせる理由のひとつは、マーケティングのデータ取得にあることは理解できるが、「女性」を選んだときに自分が「女性」であるがゆえに見せられる「女性」用の広告はあまりに単一的かつ旧時代的で、恐ろしいスピードでアップデートされる世界とのギャップは広がるばかりである。
LGBTQに対する差別を禁止する法案の通過ですら達成できない日本だけれど、めまぐるしく変わる世界の価値観の刷新についていくために、まず第一歩は、ジェンダーについての固定概念から脱却することだろう。
佐久間裕美子
文筆家
1996年に渡米し、1998年からニューヨーク在住。出版社、通信社などを経て2003年に独立。カルチャー、ファッション、政治、社会問題など幅広いジャンルで、インタビュー記事、ルポ、紀行文などを執筆する。著書に『Weの市民革命』(朝日出版社)、『真面目にマリファナの話をしよう』(文藝春秋)、『My Little New York Times』(Numabooks)、『ピンヒールははかない』(幻冬舎)、『ヒップな生活革命』(朝日出版社)、翻訳書に『テロリストの息子』(朝日出版社)。慶應義塾大学卒業、イェール大学修士課程修了。