多様性は足し算でしか増えない

多様性は足し算でしか増えない

若きバレエダンサーは片脚を失ってからも夢を追い続けた。だが、待ち受けていたのは残酷な現実。スタイルを変え、もがくように踊り、やがて世界の注目を浴びる。その過程、「障害」に対する自他の認識はどう変わったのか。“義足のダンサー”大前光市さんが語る、多様性の本当の意味。

Words: Kyozo Hibino Photos: Tohru Yuasa

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心の奥底には熱が残っていた

「義足のプロダンサーです。24歳のときに交通事故で……」

インタビューの冒頭、自己紹介を求められた大前光市さんは、小さくうなずいてからすらすらと話し始めた。追加の問いを要することもなく10分間以上、語りは続いた。

2003年、暴走運転の車に後ろからはねられた。入団を志していた舞踊団「Noism」の最終選考を受ける直前のことだった。この事故で左脚の膝から下を切断。4カ月間、入院した。

「夜中に起きてトイレに行こうとすると、(左脚が)あると思っているからコケるわけ。『やっぱりあれは現実だったんだ』って毎回確認しましたね」

大前光市/舞踊家。1979年岐阜県生まれ。大阪芸術大学舞台芸術学科でバレエを専攻。2003年、交通事故により左脚の膝から下を切断。以後、義足を着用しながらダンスを続け、ヨガや武道、新体操など幅広いジャンルの動きを取り入れながらスタイルを模索。08年、実験的アーティスト集団「Alphact」に加入。16年のリオデジャネイロパラリンピック閉会式ならびに21年の東京パラリンピック開会式に起用され、脚光を浴びる。17年の「NHK紅白歌合戦」では、平井堅が歌う『ノンフィクション』とのコラボレーションを展開した。

お見舞いに訪れた友人たちは、口々に「がんばれ」と言った。大前さんは気丈に振る舞いながらも、かすかな違和感を抱いていた。

「優しさのなかに、あきらめが入っているような……。『(ダンスを)続けろ』と言ってくれる人もいたけど、本当にその先を信じて言ってくれている人はひとりもいなかった。むしろ『残念だったね』ぐらいの感じ」

障害者に向けられがちな、無意識のバイアスがかかった視線を、そのとき初めて経験した。

当然、大前さんにも自分の未来は思い描けなかった。一方で、オーディションに合格した仲間の活躍がメディアを通して伝わってくる。遠ざかった舞台を「まったく無縁の状況から眺めているだけだった」。

ただ、灰に覆われた埋火のように、心の奥底には熱が残っていた。

「悔しくて、どん底で、泣き散らすんだけど、本物のどん底ではなかった。それまで新聞配達を10年やったり、交通費を浮かすためにヒッチハイクしたり。そういう経験が『僕は何かしらやっていける』というような自信につながっていたのかもしれない。負けず嫌いなので、『いまに見てろ』という思いもありました」

大前さんは再び踊ることを決める。さまざまな義足を試しながら、あくまで事故前と同じバレエダンスの道を究めようとした。「Noism」の入団オーディションに挑み続けたが、3年連続で不合格。悪戦苦闘していた時期、ダンスを見た人たちから、よくこんな言葉をかけられたという。

「少しずつ近づいてきたね」

それを耳にしたときの感覚を、大前さんは思い起こす。

「『ん?』と。俺は、すごくがんばったとしても“近づいたもの”にしかならないんじゃないか、と思うようになりました」

東急東横線・学芸大学駅近くの古着店「endress」にてインタビューに応じる大前さん。パンツの左脚の裾が無造作に切り落とされ、義足を隠そうとしていないことがうかがえる。

バレエは欧州で生まれ、成熟した。そのため、文化的背景も身体的特徴も異なる日本人がバレエのトップダンサーになることは、そもそも容易ではない。まして大前さんは片脚を失うというハンデも負った。

自身を「欠陥がある人」と認識していたからこそ、欠けた部分をがむしゃらな努力で埋め、まずは健常者に、その次は見本のような完璧なバレエダンサーに肉迫しようと試みた。その一方で、「近づいたところが最終地点。“そのもの”にはなれない」と、自分でもうすうす気が付き始めていた。

ただ、そう簡単に路線変更はできなかった。

「執着がありましたよ」と、大前さんは素直に認める。なぜなら、「Noism」の芸術監督を務めるダンサー、金森穣さんに強く憧れていたからだ。自らの理想を体現できる舞台がそこにあると信じて疑わなかった。

考え方の軸が「縦」から「横」へ

あきめきれずに挑んだ4度目のオーディションで、その金森さんに直接言われた。

「君はプロにはなれない。ここには入れない」

明言されて、ようやく悟った。苦笑しながら振り返る。

「『あ、がんばっても無理なんだ』ということがわかった。気合いの問題じゃない。言ってみれば、失恋したような感じ。女性はたくさんいるのに、自分にはその人しかいないって思ってて。その女性から『あなたとは絶対に付き合えないわ』って言われたような感覚に似てる。いまとなっては、穣さんはきつく言うことで突き放して、『自分がやるべきことをやれ』って伝えてくれていたのかなとも思いますね」

大前さんは、この経験を機に重要な気づきを得ることになる。考え方の軸が、「縦」から「横」へと90度変わったのだ。

かつては、真上の頂点を目指すことだけに価値を見いだしていた。縦型の尺度において上に進むこと、すなわちバレエがうまくなることで「Noism」への道も開けると信じ切っていた。

だが、恋愛と同様、熱量の大きさは必ずしも結果を約束しないことを知る。相手方には、求める像や型があり、いくら努力したところで、そこに合致した存在になれるとは限らない。

ただ、特定の型との一致・不一致は、優劣とは別次元だ。ひざまずいて伸ばした手を横に動かした途端に、別の誰かから力強く握り返される可能性はある。

誰と結ばれるか。どこで輝けるか。その鍵となる要素を、大前さんは「種類」と表現した。

「うまい人が(オーディションに)受かるんじゃなくて、必要な人、そこにふさわしい種類の人が受かる。そうじゃない人には、そうじゃない人なりの世界とかうまさがある」

交通事故で病院に搬送された大前さんは、駆け付けた父に両手を握られ「負けんなよ」と励まされた。土木業で泥が染みついた父の手に感じた力強さを思い起こし、大前さんは「その泥臭さは僕のなかにもある。僕が踊りを続けている原点でもある」と語った。バックは2021年6月、古着店のモデルとして撮影に臨んだ際の1枚。不遇だった時代の「誰も見てくれていない孤独感」が表れたこの写真が、最も気に入っているという。

片思いの相手にフラれた当初は落ち込んだが、突き進んできた一本道が寸断されたことで、おのずと新たな領域に踏み出す。アクロバットやストリートダンスなど、さまざまなジャンルのレッスンを受けた。美術や写真など、アート全般に幅広く触れた。美の多様性と表現の自由度を知るごとに、生粋のバレエダンサーとしての殻は剝げ落ちていった。

「自分のかたちがどんどん変わっていくことが楽しくなってきて。例えば、(片足で)けんけんしながら表現してみたら、『すごくよかった』と言ってもらえたり。昔の自分だったら考えられないですよね。そんな姿はみっともないし、障害者という見方をされるのも嫌だった。けど、そうじゃない見られ方もあるってことがわかってきました」

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