400人の過疎の町から世界が注目するメーカーが生まれたわけ___中村ブレイス 中村俊郎社長インタビュー[1/2]

執筆者: 藤野荘子
vol34
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400人の過疎の町から世界が注目するメーカーが生まれたわけ___中村ブレイス 中村俊郎社長インタビュー[1/2]

執筆者: 藤野荘子

私たちは何のために働くのか
より多くの人々が幸せになる社会とはどのようなものか

私、藤野荘子は企業経営者や研究者の方々にお話をお伺いし
資本主義の中で幸せに働く方法やその可能性について
ThinkAboutを通して発信しています。

連載の背景はこちら
“働く”について考える ~今の時代における労働の意義とは~

連載第1回は、中村ブレイス株式会社の中村俊郎社長のインタビューをお届けします。中村ブレイスは、島根県から、世界中で利用される義肢装具の製造・販売を行っています。人口400人の町から世界に発信し続ける中村社長が考える「働く」とはお話を伺いました。

中村俊郎さんプロフィール
中村ブレイス株式会社 代表取締役社長
高校卒業後、義肢装具メーカーに就職。単身渡米し、アメリカの義肢装具会社で研修を受けながらカルフォルニア大学(UCLA)でも学び26歳と10ヶ月で中村ブレイス株式会社創業。治療用・リハビリテーション用装具の製造・販売を行う。第37回「毎日経済人賞」を受賞する等、広く活躍されている。

義肢装具士としてのアメリカでの挑戦

ーー本日はよろしくお願いします。早速ですが、中村さんにとって「働く」とは、どのような意味があるのでしょうか。

私は、自分の夢のために働いている感覚があります。どんな夢かというと、中村ブレイスの社員がどんどん成長してくれて、島根の中村ブレイスから日本の中村ブレイスになり、ゆくゆくは世界で活躍するという夢です。20代の頃にアメリカで抱いた夢を、50年間ずっと持ち続けています。

元々、私は、石見銀山の麓にある島根県大田市大森町という小さな町で生まれました。かつては裕福な家でしたが没落したために、高校卒業後は京都の大井義肢製作所という義肢装具を作る会社に就職しました。医師の処方箋に基づいた義肢装具を作っているうちに、一介の義肢装具士にも、日本の義肢装具の新しい道を拓く可能性があると気づき、通信制の近畿大学へ入学。短大を4年かけて卒業し、23歳の時に社会勉強を兼ねて1ヶ月間アメリカに行きまた。

アメリカでは最先端の技術を見て回りたいと思い、会社や大学に飛び込み訪問しました。その中からご縁がつながり、サンタモニカにある義肢装具会社に2年半ほど研修することになりました。アメリカにいる間、生死を彷徨う交通事故に遭いました。その時から「奇跡的に生かしてもらったのだから、世界の方々に喜んでもらえる義肢装具を作ろう」という想いが一層強くなりました。その後26歳で帰国し、地元の大森町で義肢装具業を始めたんです。

ーー若い頃から様々なチャレンジをされていたのですね。世界に出るという夢があったのにアメリカ留学の後、どうして地元に戻られたのでしょうか

幼い頃に父に言われた言葉の影響があったのだと思います。「石見銀山から世界を見る」という趣旨の言葉でした。地元の大森町は、昔は世界的な銀山で栄えた町。夢があったゴーストタウンなんです。義肢装具の会社で頑張ることで、石見銀山のようにこの町から世界に出ていけるかもしれない。時間はかかるかもしれないけど、自分の力で世界を目指したいと思ったんす。

ただ、起業してしばらくはお客さんはほとんどいませんでした。まるで、自分だけが世界から取り残されているような感じでしたね。アメリカまで行って勉強しているのに売上がゼロだったら、誰だって不可能だと思いますよね。周りからは、夢みたいなことを言っている人だと揶揄され理解を得ることができませんでした。

諦めない。ゆっくりでもやり続けることに意味がある

ーー売上が上がらず、周りからも理解されない。大変な状況だと思いますが、どうして諦めずに続けられたのでしょうか

私としては、最初からうまくいかないのは当たり前だと思っていました。この片田舎の中でひとりのお客さんにでも出会えればいいんです。まずはひとりを幸せにする。それが、世界中の人を幸せにすることに繋がると思っていましたから。

また、両親や妻など、周りの人が私の可能性を信じてくれた影響も大きいですね。母は「この子は器用じゃないけど、やる子です」と言ってくれましたし、父は「黙々と 小さき歩みや カタツムリ」と言う言葉でゆっくりと進む私を励ましてくれました。妻もひたすら支え続けてくれました。私の家族は大らかで、一歩一歩進めばいいと言ってくれたんです。家族の応援に応えるために目の前のお客さんを幸せにすることだけに集中していました。

そうすると、1人だった客さんが2人になって、2人が4人になってと、だんだん増えていくんです。今の時代だとスローペース過ぎて理解されないかもしれませんが、「黙々と小さき成長を遂げよう」と自分に言い聞かせて、夢を追い続けました。

私は義肢装具の注文を頂いた時、1週間の納期と言ったら、遅れることなくピシッと持っていきます。雪が降っても、どんなに遠くても、絶対に。そういう粘り強さや誠実さを持ち続けていると、周りの人に信用してもらえるのです。

みなさんだってそうじゃないですか。「あの人は一生懸命努力してる」という雰囲気があれば、大変そうだとは思っても、悪い人間だとは思わないでしょう。そういう人って、いつか助けたくなるんじゃないでしょうか。

それで少しずつ、島根以外の地域にも展開できるようになりました。

 

キャノンマーケティングジャパン株式会社より寄贈された額縁
キャノンマーケティングジャパン株式会社より寄贈された額縁

鈍感だから持続する

ーー諦めずに、ゆっくりでもやり続けることの大切さを感じます。創業して43年続けられる秘訣はどこにあると思いますか

義肢装具の世界に50年以上いますが、仕事は忍耐力が必要です。それこそ、お客様が行うリハビリの訓練と同じ。「手術したから明日から歩けますよ」というものではありません。リハビリだって、訓練が始まった後も、治療の状況によって抜糸や消毒があって、栄養補給や医療補助も万全に行って初めてうまくいくものです。仕事も同じで、本筋を忘れずにじっくりと進んでいくしかないなと思いますね。

これまで続けられてきたのは、私が「鈍」だからだと思います。本当にゆっくりなタイプで子どものときは、もっと早く物事を飲み込めるようにならないか思っていました。でも、ゆっくりな代わりに「鈍力」があるのかもしれません。ゆっくり体験しながら吸収したものを持続させる力です。すぐに「分かりました」「できました」っていう人は確かに素晴らしいんですけど、すぐに忘れちゃうんですよ。私のように、どちらかといえば不器用な者は、何日も何年も何十年も、ひとつのことを心のテーマとして持ち続けられるんです。この仕事は、全く飽きません。もっと器用だったらすでに夢を実現しているかもしれませんが、この歳になってもまだ挑戦できることがあるのは幸せなことです。

周りからは、「よく頑張りましたね」って言われるんですけど、まだ夢の途中です。「世界の人に福音を」と言ったら大げさですが、世界中の人に、「日本の石見銀山の麓にある400人の町に珍しい義足やコルセットを作る会社があって、何かあったときに訪ねていけば対応してくれる」ということを知ってほしい。島根の中村ブレイスじゃなくて、世界の中村ブレイスになるという夢を実現するために、これからもやり続けるんです。

 

石見銀山の風景
石見銀山の風景

夢をかなえるために、環境を言い訳にしないことは心掛けてきました。例えば、よく人口400人の町では仕事がないと言われますが、私に言わせれば、仕事がないんじゃなくてやる気がないだけです。仕事は世界中にある。刀鍛冶さんでも芸術家でも同じですが、命懸けてやる人は苦しくてもやり切りますから。命を懸けられる夢を持つことが大切です。

夢というのは、人それぞれのものです。大事なことは、個々の人それぞれが持つ「自分力」を活かすことだと思います。学校での勉強など、みんなが共通で持っているものではなくて自分だけが体験したことから出てくる感覚や言葉なんです。

要するに、自分なりの「お宝」を探せばいいんです。宝探しを続ければいい。それはお母さんを大事にすることでもいいし、子どもを育てることでもいい。仕事で昇進することがお宝かもしれない。自分のお宝探し。みんな違うわけだから、自信を持って歩めばいいんです。その宝探しのひとつが、「働く」ということだと思います。

「働く」とは夢を追いかけること。50年夢を追いかけている中村さんの言葉だからこそ、説得力があります。

後編は、そんな中村さんの会社・組織に対する考え方を伺います。
400人の過疎から世界が注目するメーカーが生まれたわけ 中村ブレイス 中村俊郎社長インタビュー[2/2]

執筆者:藤野荘子
2016年にネットプロテクションズに入社。
発展途上国の開発について勉強するために立命館アジア太平洋大学に入学。
在学中に1年間バングラデシュのグラミン銀行グループでインターンシップを経験。
現地で「労働のあり方」に疑問を持ち、帰国後、労働社会学を中心に研究。
現在はビジネスとして利益を得ながら幸せに働くためにはどうすればいいか
自分の人生を通して実験中。
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