歴史学からみた組織論(後編) ー組織を破壊するPDCAー

執筆者: 三石晃生

歴史学からみた組織論(後編) ー組織を破壊するPDCAー

執筆者: 三石晃生

あなたの組織の決定がなぜ間違うのか

後編では組織の決定がなぜ誤った方向に行くのか、という点について戦国時代ではなく、第一次世界大戦の事例からみてみたいと思っています。

前編:歴史学からみた組織論(前編) ー智者の条件ー

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて。舞台になるのはパリの東側、ドイツ国境に近いところにあったヴェルダンという要塞都市です。首都パリを守る最終防衛ラインであり、ここが突破されればパリは目前であり、フランスの最重要拠点です。

第一次世界大戦でこのヴェルダン要塞がドイツ帝国から攻撃されるのですが、その前にドイツ帝国の参謀本部について幾つかお話せねばなりません。

勝つことではなく、見切りをつけられることが「正しい判断」である

フランスにナポレオンという戦争の天才が現れたとき、欧州はその嵐に飲み込まれました。しかしそれに対抗し得る天才が、必ずしも自国に現れてくれるとは限らないもの。

そうした時、「百人よれば文殊の知恵」という言葉のように、複数の秀才によって戦略を担当・立案させてこの天才に対抗しようという試みが参謀本部のコンセプトです。そして普仏戦争でプロイセン(ドイツ)の勝利によって、その有用性が証明されました。

 

話を第一次世界大戦に戻しますと、ドイツ帝国参謀総長ファルケンハインはこのような戦略を立てます。

ロシアはそもそも人的資源が豊富すぎて勝てない。イギリスはもし万が一、倒せることがあったとしても降伏しない国である。しかし連合軍の中心のひとつフランスは違う。フランスにとって突かれたら痛いヴェルダンを攻撃して消耗戦を行えば、フランスは第一次世界大戦争の継続ができないようになるかもしれない。

負け戦のドイツにとって次の局面を見出すための一手がヴェルダン要塞攻撃でした。とはいえ、要塞の攻略が目的ではありません。あくまでも、痛いところを攻撃して消耗戦を展開させるのが目的です。

事実、この作戦は的中しました。しかし、この軍の司令官であったドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の長男・ヴィルヘルム皇太子は、ヴェルダン要塞を陥落させようと攻撃に固執します。結果、消耗戦に巻き込まれ、独仏両軍合わせて70万人以上(両軍ほぼ半数づつ)の死傷者を出す大激戦が繰り広げられました。人間は、損害を出すと却って撤退できなくなるものです。

宮本武蔵が著したとされる『五輪書』にも「敵我たたかふとき、もつるる心になつて、はかゆかざるとき、わが氣を振捨て、物毎をあたらしくはじむる心に思ひて、其拍子を受て、勝をわきまゆる所也」(敵と自分が戦っている時、もつれたようになって膠着状態で埒があかないとき、自分のこれまでの意図を振り捨てて、物事を新しく始める気持ちになって、その拍子に乗って価値を見出すのである)と、ありますが、なかなか労力や損害をかければかけるほどに撤退するのは難しくなります。

人間は失敗するのを恐れます。人間ですから失敗するのは当然なのですが、人によっては自尊心がそれを許さず、失敗するような計画であっても無理矢理にそれを行なってしまうことがあります。

大局を見れば撤退や中止をするべきなのは誰の目にも明らかなのですが、組織のトップや組織の中から「ここで諦めては、今までの苦労が報われない」などという精神論が蔓延しはじめた時に、その組織は誰かの「小さな自尊心」のために破滅の沼に沈みつつあるといってもいいでしょう。

1969年に現パナソニックの創業者、松下幸之助は莫大な資金をつぎ込んでいた電算事業から撤退することを決定します。未だに評価の別れる決定ではありますが、「あの時撤退していなかったら、我が社はトップに君臨していた」と「あの時撤退しなかったから、こうなってしまったのだ」との間の現実には雲泥の差があります。前者は単なる架空の世界であり、後者は覆し得ない現実です。

すぐに数字に出ないことで撤退するのはダメですが、膠着状態から無理に力押しで攻め込むことが全く賢い戦術ではないことは、日本人は戦争の歴史から学んでいるはずです。

勝利から学ぶことは何もない

このヴェルダン要塞攻防戦でフランス側の指揮にあたったのがペタン将軍でした。士気を向上させたのも勿論ですが、ペタンが新兵器である機関銃の有用性を見抜いたことが勝利に大きく貢献します。

当時、機関銃の本体と弾は持ち運ぶには重すぎ、さらに部品交換などのメンテナンスが必要なことから実戦での実力には疑問符がもたれていた時代です。

ペタンは、これを攻撃ではなく防御という局面でこそ威力が発揮することを見抜き、主力武器としてこの機関銃という新技術を用い、ヴェルダン要塞を死守します。ペタンはこの防衛戦の勝利により「救国の英雄」として元帥になり、ペタンをはじめとしたフランス側はこの防衛戦の成功例から「勝利の法則」を導き出します。

それが、要塞至上主義です。ドイツは再びやってくるだろう。しかし不落の要塞を国境に作れば、これを突破することができない。ゆえに要塞を作ることこそが、戦争の抑止力になるだろうと考えたのです。

そしてフランスは建設期間10年をかけて1940年に「最強要塞」マジノ=ラインを概ね完成させます。

 

さて、このマジノ・ラインですが、その規模は全長約130キロ。大体、東京から新潟までの距離と考えて貰えばわかりやすいでしょう。深さ50メートル。総工費160億フラン、維持費・改築費に140億フラン。現代日本でいう約30兆円程度に相当します。

これだけの大掛かりな国家を賭けての大要塞でしたが、悲しいかな、全く使えませんでした。第二次世界大戦が始まると、ドイツは予想通り再びフランスに進撃します。

ルートとしては、第一次世界大戦がそうであったように、ベルギー北部から来るであろうとフランス側は予想。その下のベルギー南部にはアルデンヌの森があり、その南には超要塞マジノ・ラインが万里の長城のように控えています。

フランスは、アルデンヌの森は道が狭く、しかも勾配が急なため大砲などを運べないだろうと予想しました。ところが時代は20年進んでいます。当然、技術も飛躍的に進んでいます。第一次世界大戦から約20年分の土木技術と戦車技術の進歩を駆使して、ドイツ軍はこのアルデンヌの森を突っ切るという怒涛の進撃を開始したのです。

そもそもフランスには戦車に対する侮りがありました。第一次世界大戦時点では、故障が多く、主力になりえるようなものではなかったのです。戦車は森を通れないと思い込んでいたのです。その虚を突かれ、あっという間に背後にまわられ、フランスをはじめとする連合軍は全軍退却。機動力に優れたドイツの装甲部隊に追い回される形となります。

ここから現代の組織、とくに現代の日本の組織が学ぶべきことはいくつもあります。それは、「過去の成功例から学んではいけない」ということです。

勝利というものは、状況に大きく左右されるものです。時代や技術といった要因は決して無視すべきではありません。むしろ「変化・進歩」する伸び代の部分にこそ勝利は大きく依存するといってもいいでしょう。

ペタンのヴェルダン要塞防衛戦の勝利は、機関銃を主力に用いた戦法というイノベーション性にありました。そして第二次世界大戦でのドイツのフランスに対する電撃勝利もまた、戦車や道路の構築といった技術進歩を有用に用いたことにこそあります。「あの技術はこの精度が低く、現場では使えない」という侮りは、組織を大きく退行させる原因となり得るものです。

そしてもう1つは、ゼロベースからの思考ではなかった点です。フランスは、勝利の構成要素が「要塞」にあると考えました。では、要塞が意味をなすときはどういう状況でしょうか。みなさんも考えてみてください。

それは、敵の進む先に要塞があったとき、です。敵の進む先に要塞がなければ、なんら意味もなさないのです。土木技術、戦車技術の発達、それ以外にも飛行機の発達やパラシュートの発達など、「敵が要塞を通過する」という大前提を崩すものがこの時代にはいくつも登場していました。しかしゼロベースからではなく、最初から要塞ありき、の方針を信じて疑わなかったために、ここまであっさりとパリは陥落することになるのです。

では、このような「勘違い」はなぜ起こるのでしょうか。

PDCAを変化の時代に使ってはいけない2つの理由

経営学的思考の1つに、「PDCA」といわれるものがあります。これは統計学者エドワーズ・デミングから発想を得た日本発祥に思考ともいわれていますが、

Plan 計画
Do 行動
Check 評価
Act 改善

の頭文字をとったものです。日本発祥のせいか、日本に非常によく定着し、様々な組織でも未だに「PDCAを早く回せ」という言葉がつかわれ、新人教育などでもPDCAを徹底させるように教えられています。
PDCAは果たして有効なのか。このマジノ・ライン計画もPDCA型の思考様式です。

P 要塞こそが防衛の要である
D マジノ・ライン完成
C 前提が間違っているが気づいていないので高い評価をする/森を突破される
A フランス敗戦につき改善不可能

ご覧の通り、PDCAを回すどころか1回きりであることは多いのが現実ではないでしょうか。

たとえば、あるプロジェクトが会議によって計画される(P)、部下に資料作成をさせる(D)、その資料ではデキが悪いと上司が突き返す(C)、そしてこのDとCが異常に多く、一周もされないまま、資料作成に大部分を費やしたプロジェクト、が行われる。というのが現実でしょう。

あるいは、「練りに練った計画」が時代や情勢の変化に対応できていない、ということもあります。さらにひどい場合には、Cが「誰が責任をとるのか」というCheckになることさえあるでしょう。

現代に比べて、時代や技術の変化がまだ小さい第一次世界大戦から第二次世界大戦の間でさえ、PDCAは正常に機能していないことは今まで見てきた通りです。果たして技術的特異点といわれるシンギュラリティ到来のこの時代に通用するのでしょうか?

 

2つの重大な欠点がPDCAにはあるのですが、最大の欠点は時代や時間に対応できない、という点です。

ビジネスチャンスが目の前を一瞬だけ通りすぎるスピードで応酬されるようなことが世界では常識的に行われています。しかしことPDCAを信奉する日本人は、まずPlanから動かそうとする。そうこうしている間に、「No Plan」な競合の海外がそのビジネスチャンスを自己判断でとっていき、日本が競争の中で取り残される、ということは海外ではよくみられる光景になってしまいました。

PDCAは限定的な状況下でしか正しく機能しません。たとえば徳川時代中期以降のような安定的な社会においては非常に適した方法であることは確かです。しかし、Planを作っている最中に、状況が全く変わってしまうかもしれない時代においては適合し難いという点は、強調しておかねばなりません。

 

そしてもう1つの欠点は、計画を立てた首脳部(P)と実際の実働部隊(D)との間に乖離が生まれてしまい、現場での直感や意見がフィードバックされにくくなりやすい点。さらに弊害として改善されるべきは現場にあるという認識を「上層部(計画者)」が持ち、計画は絶対不動のものとして動かないというパターンが生まれやすい、ということです。

これが悪化したとき、「うちの組織の連中はやる気がない」などの精神論になっていきます。プラン自体は正しかったが、実行した連中が無能だった、と「Check」され、左遷なりなんなりのペナルティーが課せられるといった構造です。これはパワハラの温床にもなり得ます。

PDCAは使う時を誤れば、イノベーション性を大きく損なう組織思考になる点はよく留意しておくべきでしょう。

またそうしたPDCAの弊害を変え得るものとして注目されているのがデザイン思考、アート思考であり、プランを絶対視せずに、直感で「軽やか」に行動し、その経過で生まれる偶発性も取り込もうとする思考です。むしろこの場合、「要塞至上主義」ということにメスを入られるのはアート思考でしょう。問題提起自体に対して疑いをもち、そこから新たな方策を創造するのに適しています。

部将が現場判断を戦場で生かせなくなるPDCAの闇

前編では「軍師」は日本では存在せず、実態は現場で指揮を執るひとびとであった、といいましたが、これは刻一刻と変化する戦場においては非常に合理的で、現代よりも進んだ思考を持っていたといえるでしょう。

石田三成を理想のスタッフとして前編でも取り上げましたが、石田三成には戦下手というレッテルがはられています。それは今の埼玉県の行田市にあった忍城という城の攻略戦「忍城攻め」の失敗による印象です。

天正18年(1590)6月、小田原城を包囲する秀吉本隊とは別に、関東の諸城を落とすために石田三成らは忍城を包囲します。ここで忍城の10倍もの大軍で、三成は水攻めを行います。しかし堤防が決壊して三成側に損害がでて失敗し、結局は城攻めでは落とせませんでした。

石田三成の戦下手は、江戸時代の軍記物に書かれた内容を基にしており、単なる俗説にすぎません。実際のこの時の秀吉の書状のやり取りをみると、秀吉が自らの発案で忍城を水攻めで攻めるようにと命令を下していることがわかります。三成が水攻めに固執したわけではありません。

埼玉の行田市に行き、三成が陣をはったとされる丸墓山古墳に登ってみると、いまでも見渡す限りの平坦な平野が一望できます。水攻めをするには絶対的に不向きな地形です。

三成もそれをよく承知し、かつ大軍がいるのに城攻めをしないので士気が下がっていると三成は秀吉に現場の気づきをフィードバックをしますが、小田原にいる秀吉にはその実感がわかなかったのか水攻めの計画は覆りませんでした。

つまり、現場のアイディア、直感からの対話は黙殺されたのです。そして三成は戦国合戦史上最大の全長約28キロメートルに及ぶ大堤防をなんとか作るものの、忍城を水没させることはできず、更には堤防が決壊して自軍に損害が出てしまう有様になりました。

無理な計画の策定による悲劇。まさにこれはPDCAの悪い例の典型です。
人間とは、歴史から学ぶことができる生き物なのです。
そして歴史とは、人間行動の膨大なサンプルの集積です。
この中から客観的に学ぶことで、私たちは新たに高次の創造を現代に生み出していくことができるのです。

執筆者:三石晃生
東京生まれ。歴史学者・歴史論者/株式会社goscobe代表取締役。
大学2年時に渋沢栄一子爵・井上通泰宮中顧問官らが設立した温故學會・塙保己一史料館の研究員に就任、現在は研究員と監事を兼任。2017年には世界初の歴史分析を用いた企業・社会イノベーションコンサルタント、株式会社goscobe(グスコーブ)を設立。歴史的知見に基づいて、さまざまな大型プロジェクトや企業のコンセプトデザイン、アイディア創発などに協力。
教育分野では日本財団と東京大学先端科学技術研究センターの異才発掘プロジェクト「ROCKET」SIGで史学担当の外部講師として、異才の子どもたちへの白熱講義で活躍している。
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