「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義“以後”を切り拓く「勉強」論

執筆者: 小池真幸

「新しい価値をつくる」のは、もう終わりにしよう。哲学者・千葉雅也氏が語る、グローバル資本主義“以後”を切り拓く「勉強」論

執筆者: 小池真幸

「勉強」するとキモくなる–––。そう言い放ち、周りの環境の「ノリ」から解放されて「変身」するために「勉強」する意義を説いた書籍が、2017年4月に刊行されて話題を呼んだ。立命館大学大学院で准教授を務める気鋭の哲学者・千葉雅也氏が著した、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(以下、『勉強の哲学』)だ。

日々革新的なイノベーションが起きている市場に身を置くビジネスパーソンこそ、「勉強」が必要なのではないか–––そんな仮説のもと、ビジネスパーソンがいかに「勉強」と向き合うべきなのかを徹底的に考えるため、著者の千葉氏にインタビューを行った。「勉強」の定義や組織における「勉強」の位置付けの話から、グローバル資本主義を問い直す原理的思考や現代における「遊び」の様相の変容まで、射程の長い人類史的な「勉強」論について語っていただいた。

「勉強」はすごく怖いこと。安心できる“鋳型”からあえて抜け出し、自己破壊する

――まずは議論の前提として、『勉強の哲学』に書かれている「勉強」とは何か、簡単にお伺いできますか?

一言でいうと、周りから「お約束」として押し付けられている、振る舞いの「コード」から逃れることです。

そもそも人間は、完全に自由な状況に放り出されると、何もできなくなってしまいます。可能性が無限大だと、何をしたらいいのか分からず、狂ってしまう。だから人間は、「このモデルに従って生きなさい」といった外的な“鋳型”を求めるんです。たとえば、「男は命をかけて女を守るべき」といった「コード」に従うことで、ようやく自分の実存が安定し、「主体化」できる。

――本来は主体化のために必要なコードから、あえて逃れることが「勉強」だと。 

そうです。だから、「勉強」はすごく怖いことなんです。落ち着いている状態を、わざわざ自分で乱して破壊するわけですから。ただ、一定の鋳型にはまっている生活が必ずしも幸せとは限らなくて、何かしらの不満を抱えていたり、社会的に搾取されるような不利なポジションに追い込まれてしまっている場合もあります。そこに違和感を覚えたり、抜け出したいと思ったときに、「勉強」して、これまで頼っていた鋳型の外に出ることが、状況を好転させる糸口になり得るんです。

――学校教育における一般的な「勉強」のイメージとは、むしろ逆ですね。 

普通は、何かの鋳型によって自分を固めるために学ぶことが「勉強」とみなされていますからね。一定の「コード」に従って主体化するための学びが、学校教育的な「勉強」でしょう。

対して僕が提示している「勉強」は、真逆の意味を持ちます。鋳型に収まるのではなく、「脱鋳型」。そして、今の自己を破壊したうえで、自分自身の享楽にもとづき、新たな鋳型を作り出そうと提案しているのです。

――「コード化」ではなく、「脱コード化」だと言えるかもしれません。 

おっしゃる通りです。そして、脱コード化は、いま我々が生きているグローバル資本主義の世界の基本なんですよ。資本主義の基本は、脱コード化によってコードを壊した後、新しい価値(すなわち「剰余価値」)をつくり出し、それをどんどん搾取していくことです。脱コード化としての「勉強」は、グローバル資本主義の運動と一致する。

ちなみに、近代においては、物理的な生産によって剰余価値の創造と搾取をくり返してきたわけですが、現代では別のフェーズに移行しています。物理的な生産物の可能性が尽きてきたので、よりバーチャルなものに剰余価値を見出すようになったんです。消費社会が発達すると、ものの実際の使用価値よりも、ブランドイメージとか物語性といったバーチャルなものが消費の対象としてより重要になります。80年代に消費社会のそういう段階が本格化しました。そしてインターネットの普及以後、現代では、人間関係、コミュニケーションに付随する–––たとえば嫉妬などから生じる——剰余価値がとりわけ重要になっています。ソーシャルメディアは、まさに「ソーシャルな剰余価値の搾取」をビジネスにしているわけです。

1978年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。専門は哲学・表象文化論。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。著書に『動きすぎてはいけない——ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、『勉強の哲学——来たるべきバカのために』、『意味がない無意味』、訳書にカンタン・メイヤスー『有限性の後で——偶然性の必然性についての試論』(共訳)など。

「頭のカタイ社会と、それに対する“脱”」という弁証法の限界

――グローバル資本主義が高度化した現代は、脱コード化が極端に進んでいる時代だとも言えそうです。

そうですね。ただ最近は、若い人を中心に「再コード化」が進行しているようにも感じています。ご推察の通り、もともと僕らの世代にとっては、脱コード化が若者文化の基本でした。校則で髪型や制服が厳しく規定されているのに反発して自由化運動を起こしたり、夜遊びを悪とみなす価値規範に反発して夜中に遊びまわってみたり。

しかし、コードの破壊をくり返した結果脱コード化が全面化した現代では、むしろ逆転的に、若者はコード化されることを求めているように見えます。

この間も、ファッション雑誌で「無難が一番」といった主旨のキャッチコピーが使われているのを見て、驚いてしまいました(笑)。社会に対してアンチを突きつけるための別の野蛮なスタイルをつくり出そうとする、まさに脱コード化的な90年代のファッション文化やギャル男ファッションを通過してきた僕からすると、「無難が一番」なんて信じられません。

今はかつてのような「頭のカタイ社会と、それに対する“脱”」の弁証法が、成り立たなくなってしまっていますよね。僕らの世代からすると物足りなく感じてしまうのですが、若者からすると、そういうオヤジはうざいと感じるでしょうね(笑)。

――若者が再コード化を志向するようになったのは、なぜなのでしょうか? 

グローバル資本主義の激化により、あらゆるコードが流動化し、あらゆる価値観が交換可能になっているからでしょう。すると安心できなくなり、意味なんてなくていいから、「お前はこうだ」という押し付けがほしくなる。先ほどもお話ししたように、人間は完全な自由には耐えきれないんです。

ロックバンドではなくスタートアップ。文化が死んだ時代、「遊び」はどこに?

――あまりに脱コード化が進行してしまったがゆえに、その揺り戻しが起こっているのですね。

また、文化のデータベース化がほぼ完了してしまったことも一因だと思います。90年代までは、文化のデータベースをつくっていく時代で、まだまだコードの外に新しいものがあると期待することができました。しかし2000年代を経て、ありとあらゆる可能性が出尽くしてデータベースに登録されてしまい、大体の物事はパターンの組み合わせだという見切りがついてしまった。そういうわけで、脱コード化して新しいものを求める活力がなくなってしまったのだと思います。

――たしかに、観たい映画はたいていNetflixに揃っているけれど、だからこそ逆にあまり観なくなってしまっている気もします。 

僕もそう思いますよ。昔から音楽が好きで、宇都宮に住んでいたときにわざわざ渋谷のマニアックなレコード店まで足を運んで現代音楽を漁ったりしていたのですが、今ではそういったものもだいたいSpotifyで聴けてしまう。良い時代だなとは思うんですが、逆に昔ほどは聴かなくなってしまった。目の前にごちそうがたくさんあると、かえって食べたくなくなるんです。

同時に、「博覧強記」的な能力も昔ほど取り沙汰されなくなりました。かつての松岡正剛や荒俣宏のように、頭の中に膨大なデータベースを持っている「歩く百科事典」的な人物は、今では思い当たらない。自分で暗記しなくても、外にあるデータベースを検索すれば、必要な情報は手に入る時代になったからです。

――文化のデータベース化が完了した今、人々はどこに楽しみを見出しているのでしょうか?

現代ではコミュニケーションの価値が首位にあり、それゆえにふたたび「政治の季節」が来ているのだという印象を受けます。

先ほどもお話ししたように、僕らが若者だった時代は、今日のグローバル資本主義による世界体制の形成途中だったので、さまざまな文化が勃興していました。だから文化的関心を強く持てたんです。しかし現代は、グローバル資本主義の高度化により、文化的な面白さが尽きてしまった。そうなったときに、1950〜70年代の安保闘争や学生運動の失敗で一度潰えたはずの政治的関心が、また湧いてきている。若者の求める価値がもっぱらコミュニケーション的となった状況が、政治的関心の高まりと一致する。アニメも音楽も何もかもが面白くなくなったとき、人間関係と、それに付随して発生する感情が最大のコンテンツになるのであり、それが今日における新たな「政治の季節」を形づくっているのだと思います。

――たしかに、現代の尖った若者は、文化的な活動ではなく起業やNPO活動などに従事している印象を受けます。

かつての若者がロックバンドを組んだのと同じように、現代の若者はスタートアップに踏み出す。経済的な活動だけでなく、NPO活動や差別反対運動のような社会・政治活動も同様です。

以前は、ビジネスや社会貢献といった「下部構造」はおじさんたちに任せ、若者は文化という「上部構造」で遊んでいました。しかし、もはや文化は死に、上部構造の可能性は尽きてしまった。もう「新しい文学を創り出す」「新しい音楽を創り出す」といった試み自体が成り立たなくなってしまっている。すると、経済、それを動かす人間関係、社会システムという下部構造で遊ぶしかなくなっているんです。

――つまり現代の若者は、脱コード化するにせよ、下部構造でしか楽しめないということですね。

そのアイロニカルな例として面白いと思っているのが、実業家の与沢翼さん。僕の解釈では、彼は徹底して下部構造で遊んでいて、「もはや、全力で純粋に資本主義を楽しむことにしか、楽しみはない」ことを体現していると思います。それにより、グローバル資本主義がいかにどうしようもない馬鹿げたものかということを、全身全霊でおちょくっている。軽々とドバイの超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」を購入し、実際に生活する様子をTwitterで発信することで、それがいかにどうでもいいことかを自ら示している。さらにこの間日本に帰ってきたときは、肩に札束を乗せてスクワットをする様子をTwitterに投稿していて、そのことについて誰かがコメントしていたのですが、「もはやお金は重さでしかない」ことを体現しているわけです(笑)。

もちろん彼自身にそういった意図があったかどうかは分かりませんが、「もはや下部構造で遊ぶしかない」時代を端的に象徴している人物だと思っています。

「頑固な田舎者のオヤジ」の存在が、グローバル資本主義への抵抗となる

――先ほど「現代の若者は再コード化している」という話がありましたが、そういった状況において、どうすれば人々は「勉強」するようになるのでしょうか?

「勉強しろ」と言われて勉強する人はいませんからねぇ…(笑)。僕のような「勉強」が好きな人間が、「勉強」して楽しそうにしているところを示すしかないでしょうね。本を読んだりものを考えたりして楽しんでいる様子を、積極的に発信するしかないと思います。

あとはそもそも、組織のなかの全員が「勉強」する必要はないと思いますよ。「勉強」への欲望に気がついた人だけがやればいい。現時点で特定のコミュニティのコードで幸せに暮らしている人を無理やり脱コード化させようとしても、ある種のハラスメントのようになってしまいますし、そもそも学ばない人の存在も大事だと思っています。

――なぜ「勉強」しない人の存在が大事なのでしょうか?

グローバル資本主義への抵抗となるからです。先ほどもお話ししたように、「勉強」による脱コード化と剰余価値の創造は、資本主義の基本です。全員がそれをやるようになったら、グローバル資本主義の高度化がますます止まらなくなってしまう。

したがって、「頑固な田舎者のオヤジ」のようにあえて「勉強」しない人の存在は、グローバル資本主義への抵抗になるんですよ。なぜなら、そこに「遅さ」が導入されるから。『勉強の哲学』の中でも、「勉強」するときは、「アイロニー」(=根拠の掘り下げ)と「ユーモア」(=視点の転換)の無限ループを有限化するために「享楽」を大切にしなさいと書いていますが、この「享楽」とは自分のなかにいる「頑固な田舎者のオヤジ」のことだとも言えます。

――ということは、「勉強」する人としない人で、時には対立してしまっても構わないと?

喧嘩すればいいと思いますよ。もちろん過剰にパワハラ的なものには対処しなければいけませんが、程よい対立は必要だと思いますね。むしろ、喧嘩して折れてしまうような人は、そもそも「勉強」への意志が弱い。多少の抵抗は跳ね返せるような人じゃないと、「勉強」なんて続けられませんよ。

「自由な組織形態」も、資本主義の搾取の一形態に過ぎない

 ――ビジネスパーソンは会社組織に属していることが基本ですが、「勉強」を組織のなかで行うことについては、どう思われますか?

「組織人として大人しくしているのはやめろ」と言っているのと同義なので、組織人の道徳とはぶつかりますよね。とりわけ、官僚制的組織の場合はその傾向が顕著になります。一人ひとりの人間を特定の役割に分割し、個性を認めないことで効率的な組織運営をはかる組織においては、“部品”にすぎない個々人がメタ的視点を持つべきではないんですよ。

――昨今のビジネスシーンでは、階層的秩序を持たない「ティール組織」「ホラクラシー型組織」のような組織形態も現れています。

官僚的組織とは一線を画した、自由で遊動的な組織形態についての議論は昔からありますね。ドゥルーズ=ガタリが言うところの「戦争機械」や、デヴィッド・グレーバーが言うところの「アナキズム」といった概念もそういう組織論と親和的です。自由で自発的なアソシエーションによって、管理者がいなくても組織を成り立たせようという思想ですよね。

もちろん、そういった遊動的組織のほうが、「勉強」との親和性は高いでしょう。部品としての個人が組み合わさる官僚制的組織ではなく、それぞれが野心を持って全体のことを考えながらやりあっていく、言わば「ごろつきの集まり」のような遊動型組織のほうが、「勉強」の効果が発揮されやすい。組織論的に言えば、『勉強の哲学』で提示したことは、組織全体をそういった遊動的でノマド的な形態に変容させようという動きと、同じ方向を向いていると思います。

――とはいえ、遊動的組織になればすべてが解決する、というわけでもないですよね?

もちろんです。むしろ、遊動的組織であっても、結局は搾取の構造に行き着きます。「自由な組織形態」といっても、一つの会社であり、そこに利益を集中させたいことには変わらない。すると、外部に奴隷的な人々を生み出し、他の人から搾取せざるを得なくなります。組織内部の人たちは活き活きとするかもしれませんが、それが資本主義の搾取の一形態であることには、何も変わりはありません。近年注目されている「フリーミアムモデル」も、構造は同じです。儲けようとしないことで、逆説的に儲けようとしている。搾取の構造からは逃れられないんです。

とはいえ、依然として企業社会においては官僚制的組織が残っているので、それへの批判という観点では意義があると思います。搾取構造についても、「そう言われても、会社だから利益を出さなきゃいけないし…」というビジネスパーソンの苦労ももちろん分かりますが、僕はビジネスをやっているわけではないので、哲学者として勝手に原理的な話をしているだけです(笑)。

ソーシャルな剰余価値を搾取するビジネス形態は、もう限界 

――最後に、これからのビジネスパーソンが抜け出すべき固定観念とは何かお伺いしたいです。

「グローバル資本主義は今後も続く」という固定観念でしょうね。まったく別の経済圏について考えるなど、経済システムに対して原理的思考を巡らせることが、逆説的にビジネスの問題になってくると思いますよ。ブロックチェーンなど最近世間を賑わせているようなものは、その一つの実験でしょう。

もはや、「新しい価値をつくり出す」という発想はやめるべきです。現状のシステムに乗っかり、そこで新たに剰余価値を創出する手法は、もう耐用年数がきていると思いますね。僕がやっている哲学の研究に関しても同じことが言えて、「先行研究と差別化する」みたいな発想だと、新しいペットボトルのお茶を開発することと大差ないわけですよ(笑)。少し抹茶の粉を足しました、みたいなね(笑)。「新しい価値をつくり出す」はもう駄目で、かといって古いものをそのまま使えばよいというわけでもない。そこをいかにして考えていくかが今後の課題ですよね。

――過去にそういった原理的な変革が起こったことはあるのでしょうか?

たとえば、資本主義の発明はそれにあたりますよね。資本主義以前と以後ですべてが変わったわけですから。そのような人類史的切断がこれからも起きるのか、それとももう行き着くところまで行き着いてしまったのか、そういったことを真剣に考えるべき時期に差し掛かっていると思います。

こういうことを言うと、「夢見がちな革命論だ」「既存のシステムに乗っかっていかにうまく立ち振る舞うのかを考えるのが大人だ」といった反論をする人が出てきます。だけど、もうそんな段階じゃないと思うんですよ。現実を見たときに、「本当に他の可能性がないのか」をただ具体的に考えるべきであり、態度が「大人っぽい」「子どもっぽい」といったレベルの話ではないはずです。

――その固定観念から抜け出すために、個々のビジネスパーソンができることがあればお伺いしたいです。

手近なところから言えば、「ソーシャルな剰余価値を搾取する」ビジネス形態はもう限界なので、その先を考えることから始めるとよいでしょう。アメリカにおける「トランプ的なもの」と「リベラルなもの」の対立や、日本における右派と左派の対立といった政治状況も、「ソーシャルな価値の創造と搾取」というビジネス形態の耐用年数が過ぎていることと、綺麗に対応しています。それはたんにイデオロギー対立の問題ではなく、経済的に条件づけられている事態だと思うんです。

それくらい根本的に考えないと、ビジネス的にも大きいことはできないはずです。GoogleやFacebookは人類史を変えようとしていますが、究極のアヴァンギャルドなビジネスは、人類史をどう捉えるかに関わってきます。もちろん直感でそこにたどり着く人もいますが、よりしっかりと「人類」について考えていくためにも、人文学的な教養などをしっかりと「勉強」することが大切になってくるのではないでしょうか。

執筆者:小池真幸
93年生まれのライター・編集者。AI系スタートアップのマーケターを経て、現職。関心のベクトルは、人文知をバックグラウンドにビジネス・テクノロジーを考えること。
Twitter:@masakik512
この執筆者の記事をもっと見る