
AIをはじめとするテクノロジーの発達により、我々の仕事はこれからどんどん様変わりしていくと言われています。機械が人の代わりにできることが増えていく時代において、「AIに仕事を奪われないように」や「人だからこそできる仕事をするべきだ」という言説をよく見かけるようになりました。
しかし、そもそも「人だからこそできる仕事」なんてあるのでしょうか。
「人間とは何か?」というテーマを、AI研究やロボット工学、ゲノム編集技術などが進展する現代において新たに問い直し、人間の本性に迫った本『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』著者の吉川浩満さんに、これからの時代を生き抜く上で必要な仕事観や思考法についてお話を伺いました。
本気で悩んでいる人って本当にいるんでしょうか
――今回のインタビューテーマは「人間だからこそできる仕事は何か」です。「AIに仕事が奪われるかも」という話もよく聞きますが、吉川さんのこのテーマに対する考えを教えてください。
まず最初に、現時点で確実に言えそうなことを確認しておきましょうか。二つあります。一つめは、きっと大きな変化が起こるだろう、ということ。二つめは、しかし正確な予測はできないだろう、ということ。つまり、確実に言えることはあんまりないということですね。
特に近年はAIの参入により変化がさらに激しくなり、予測がさらに困難になったという状況です。ここで大切なのは、むやみにAIを敵視したり被害者意識をもたないことではないかと私は思っています。

吉川浩満さん 1972年生まれ。国書刊行会、ヤフーを経て、文筆業に。著書に『理不尽な進化』(朝日出版社)や『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新書)など。
――それは、必要以上にAIを恐れる必要はない、ということでしょうか?
はい。というか、本気で悩んでいる人って本当にいるんでしょうか。
――確かに「AIに仕事を奪われた!」という人は、現時点であまり聞かないかもしれません。
じゃあ私たちはどうしてこんなにもAIに注目しているのか。それは、突き詰めると楽しいからじゃないですか。
――不安ではなく、楽しいからですか?
不安や恐怖や「怖いもの見たさ」もすべてひっくるめて、あれこれ考えることがおもしろいからなんじゃないかと思うんですよ。
背景には、失われた20年とか30年と言われるように、このところずっとワクワクさせるようなニュースが出てこない時代だった、ということがあると思います。そこへ久々の第三次AIブームがやってきて、なんだかよくわからないけども、何か変わったことが起きそうだ、という雰囲気になった。要は、久しぶりに未来について考える機会が現れた、ということではないかと思います。
――停滞していた世界に、新しい変化の兆しが見えてきて、だからこそみんなおもしろがっているんだ、と。
はい。一過性のブームにすぎないと見る向きもあるでしょうが、そうした現象は悪いものではないと思っています。久しぶりに、「私たち、どうしようかな」と、自分たちの来し方行く末を再考するきっかけになっているのですから。
もちろん、危険がないとはいえません。不安に付け込む輩が出てくるでしょうし、カルトな方向に進んでしまう人もいるかもしれない。でもそれは、大きな変化が起こるときには必ず生じることですよね。
悩んだら「コントロールできるところ」まで戻って考える
――再考するチャンスとして未来を思い描く、というのはとてもポジティブな考え方です。その一方で、「AIに仕事を奪われるぞ」という論調もまだまだ強く、未来に怯えている人も少なくない気がします。
まあ、ビジネスや言論は、そういう煽りがあって成り立つところもあります。なので、どうしても「AIか、人間か」みたいな対立構造で表現されやすい。でも、ちょっと調べてみればわかるとおり、きわめて優秀な人たちが正反対のことを主張していますよね。
たとえば、発明家のレイ・カーツワイル氏や歴史家のユヴァル・ノア・ハラリ氏は、AIの発達が人間の能力をはるかに超えて社会を激変させるだろうと予測しています。シンギュラリティの到来ですね。いま流行のAI脅威論や待望論はこうした主張に対するリアクションです。でも他方で、東大合格を目指すAI開発プロジェクト「東ロボくん」を率いた新井紀子氏やフランス国立科学研究センター倫理委員会委員長のジャン=ガブリエル・ガナシア氏は、そんなことはありえないと断言する。どちらの言い分にも説得力があり、簡単に判定できるものではありません。
「AIに人の仕事を奪われるのではないか」という話にしても同様です。小売、建設、介護の現場などでの「単純労働」はAIやロボットによって代替されるだろうという議論がある一方で、いやいや、臨機応変に多彩なタスクをこなす現場仕事こそ代替不可能で、むしろ業務がコンピュータの操作で完結するホワイトカラーの専門職こそAIに取って代わられるはずだ、という議論がある。私はどちらかといえば後者寄りの考えではありますが、これも判定が難しい。
――吉川さんご自身はどうお考えですか?
いま述べたとおり、飛び抜けた頭脳が正反対の主張をしているトピックに対して、私などがさらに主張を加えたところでなんになるんだという気がしないでもないですが、こんな風に考えています。
まず、端的にいって、人間にしかできない仕事なんて別にないんじゃないかと思います。近い将来、AIやロボットもたいていの仕事はある程度できるようになるのではないでしょうか。もちろん、どの程度できるようになるのかが大問題なのですが、そこは現時点では予想が難しい。とりあえずは、人間だからといってあまり過信しすぎないのがよいと思います。
かといって、じゃあやっぱり人間の仕事はなくなるのかというと、そうでもないと思っています。過去にもそういうケースがあったように、オートメーションの拡大によって一定の仕事がAIやロボットに取って代わられることはあるでしょうが、人間が仕事をしたほうがいい時と場合もたくさんあるでしょう。人間が従事することが好まれるサービスもあるだろうし、あるいは経営者から見て人間のほうが安上がりだったりするかもしれませんし……。
――「これが答えだ」というものはない、と。
そうですね。どんな仕事がAIに代替されるかは、AIの性能や価格だけでなく、人間の嗜好や都合にも左右されます。もしAIやロボットがあらゆる仕事を人間とまったく同じようにできるようになれば、人間だからこそできる仕事というのは原理的にはなくなります。でも、仮にそうなったとしても、もし人間の側に、人間にこそやってもらいたいという商品やサービスがあれば、人間の仕事は事実上なくなりません。少なくとも人間が社会を動かす存在であり続けるかぎりは。
なんだか当たり前のことばかり申し上げるようで恐縮ですが、「人間だからこそできる仕事は何か」というような大きな問いに対しては、こういう大前提を確認することでよしとするのがいいんじゃないかと思います。そもそも未来を正確に予測することはできないのですから。
むしろ、AIのことより人間のことを、人間のことより自分のことを気にかけるのが、正気を失わないために大事なことではないでしょうか。つまり、わけのわからない予想に一喜一憂してしまうときは、自分にとってコントロール可能な範囲にいったん退却する、ということです。もちろん、当のAIの企画・開発をしている人はAIについて考えざるをえないと思いますが。
――コントロール可能な範囲、ですか?
はい。これは真面目に言うのですが、ソクラテス風に自分の「魂の世話」を第一に考えるのがよいと思います。AIがどうなるかとか、人間の仕事が総体としてどうなるかというのは、自分の力ではまるでコントロール不可能な領域の問題ですよね。そういうことに依存しすぎない方がいい。そうでないと裏切られつづけることになると思います。それはつらいことですよね。最初に述べたように、AI関連技術が社会にもたらすインパクトについて考えるのは楽しいことですから、存分におもしろがればよいのですが、あまりそこにアイデンティティを託さないのが身のためだと思います。
その代わり、自分である程度コントロールできる領域に依拠する。つまり、自分は何をやりたいのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、何を避けたいのか等々、夏目漱石のように「自己本位」で物事を決める、これが大事なことだと思います。
私が好きな哲学の一派に古代ギリシア・ローマで活躍したストア派という人びとがいて、その代表格であるエピクテトスという哲学者がこんなことを言っています。「世の中の物事には二種類ある。すなわち、自分でコントロール可能なものと、不可能なもの。コントロール不可能なものについては忘れよ。そして、コントロール可能なものに注力し、改善せよ」と。まあ、自分のことといってもよくわからないところは必ずあるものなので、あくまである程度、という話ではありますが。
――なかなか割り切るのは難しそうですね。仕事が上手くいっているときは、「そもそも」のことなんて考えませんし。
そうですね。うまくいっているなら、少なくともそのときはそんなことは考えないですよね。考える必要がないから。でも、死ぬまですべてがうまくいく人とか、何が起ころうと悩んだりしないという人はごくごく一部で、大部分の人は挫折したり壁にぶつかったりするものだと思います。そうやって悩んだときには、そこまで戻って考えてみるというは悪くないと思いますよ。
何かに失敗したり壁にぶつかったりしたときには、いったんスタートラインに戻る。そのスタートラインは何かと言えば、先ほど申し上げた、自分は何をコントロールできて、何をコントロールできないのか、ということ。コントロール不可能なことはとりあえず考えなくても大丈夫。コントロールできることとできないことをいったん分けて考えて、とりあえずコントロールできるところから考えましょうか、と気持ちを切り替えていく。
自分がコントロールできる「サードプレイス」にアイデンティティを置く
――仕事を考える上で、自分でコントロールできる範囲ってどれくらいでしょうか。自分で好きなことを仕事にしても、それでは食っていけないこともありますよね。
そうですね。そこは多くの人が悩むところでしょう。そこで、もっと柔軟に働き方を考えてみるのもいいと思いますよ。たとえば、これからの時代を生きていく上では、「セカンドプレイス」と「サードプレイス」を入れ替える勇気というのが必要になる局面もあるのではないでしょうか。
――セカンドプレイスとサードプレイスを入れ替える、ですか?
はい。正確には、自分のアイデンティティの拠りどころのようなものを、一部でいいからセカンドプレイスからサードプレイスに移動させる、ということです。社会学者のレイ・オルデンバーグ氏は、現代人の生活にはファーストプレイス(家)とセカンドプレイス(職場)だけでなく、それらとは切り離されたサードプレイスが必要だと言っています。具体的には、カフェやバー、趣味のサークルなどのコミュニティですね。
ひょっとしたら私自身の働き方も一例になるかもしれません。私はメディアでは文筆業者を名乗っていますが、おもな収入源、つまり普通の意味での仕事(セカンドプレイス)は別のところにあります。火曜日から金曜日まではフルタイムで、学会誌などの編集事務を請け負う会社で編集や校正のアルバイトをしているんです。文筆のための時間は、土日や仕事の行き帰り、休憩時間から捻出しています。
――そうだったんですか。てっきり吉川さんは文筆業に専念されているのかと。
私のアイデンティティの核はいまのところ文筆業にあります。ただ、文筆業は私にとってセカンドプレイスというよりサードプレイスなんです。
――サードプレイス、つまり趣味の一部である文筆業が吉川さんのアイデンティティになっている、ということですか。
はい。私の職歴を簡単に振り返りますと、学校を出て国書刊行会という出版社に2年半くらい勤めた後、1996年にインターネット関連企業のヤフーに転職しました。会社ができたばかりでスタッフも10人くらいしかおらず、当時はまったくの無名企業だったのですが、とにかく仕事が楽しくて、ファーストプレイスとセカンドプレイスを行き来するだけの日々でした。
でも、そうしたスタイルは楽しいけれどけっこう疲れる。私もめちゃくちゃ働けたのは2〜3年で、結果的にメンタルを壊して働くことが難しくなってしまった。そのしんどい時期に、その後も二人三脚で本をつくることになる編集者から「本を書かないか」という話をいただいたんです。渡りに船で文筆業に移行しました。
――なるほど。
ファーストプレイスとセカンドプレイスしかない状態で文筆業を始めたものだから、当然文筆業がセカンドプレイスになるんですが、そうすると食っていくためにいろんな仕事をしなければいけないわけです。物書きのくせにこんなことを言って申し訳ないのですが、私は読むのは好きだけれど書くことはあまり好きじゃないんじゃないかと思うようになってきました。たくさん書くことがだんだん苦痛になってきて、40歳ごろになってこれはさすがにしんどいな、と。何でもいいから仕事を探そうとして、派遣会社に登録して、そこで校正のアルバイトを始めました。いま働いているのとは別の会社ですが。
いまではほぼ完全に割り切っていて、編集や校正の会社がセカンドプレイスになっています。そして、物書きはできるだけ楽しくやろうと思って、こちらをサードプレイスにするような意識に切り換えたんです。
――これまで仕事にしていたものを趣味にして、その趣味に自分のアイデンティティを置くことにしたんですね。
そうです。何が言いたいかというと、これまで話してきたように、たとえばAIの参入によって産業構造の変化がより激しくかつ予測困難になることを考えると、仕事に依存しすぎるのは「魂の世話」の観点からして必ずしもよいことばかりではないのではないか、ということです。
どの会社でどんな仕事に就けるかということはかなりの程度運次第だと思うのですが、好きなこととかやりたいことはある程度自分のコントロールできる範囲にある。そういうコントロールできるところに自分のアイデンティティを置くという観点も大事ではないかな、と思います。
――現在は、言われてみたら、サードプレイスではなく、セカンドプレイスにアイデンティティを置いている人がほとんどなのでしょうね。
もちろんそれも悪くないんです。仕事で何か大山を一発当てたいとか、がむしゃらに働くこと自体が好きだという人は、そういう生き方もありというか、それそれで幸せな生き方だと思います。でも、少なくとも私にとっては、そしておそらくけっこう多くの人にとっても、それはかなりしんどい生き方ではないかと思っています。
数十年前なら、大きな企業や役所に入れば終身雇用制度のもとで安定した収入が得られたでしょうから、それでもよかったかもしれない。でも、いまは仕事が変わって当然の時代ですよね。今後はもっとその傾向が加速するかもしれない。そんな時代に、自分のアイデンティティの拠りどころみたいなものを職場とか会社とかに丸々委ねていると、仕事が変わるたびに崩れてしまうことになる。これはつらいのではないか。
人生において仕事が重要であることを否定するつもりはないのですが、自分のアイデンティティそのものになるような仕事を得られる人は現実には少数ではないかと思います。しかも、どれだけ努力しても、どれだけ能力があっても、そういう天職に就けるかどうかは運次第というところがある。それなのに、メディアは仕事をアイデンティティの核とするような生き方をすべしとプレッシャーをかけてくる。これでは、職探しにうまくいっていない人が悩むのも当然ではないかと思います。だから、変化が激しい時代においては、アイデンティティを一部でいいからがサードプレイスに移転する、というのは悪くないアイデアだと思っています。
私たちは時代に問われている、と考える
――変化の激しい時代を不安に感じる人もいる一方で、吉川さんのようにその様子を楽しんでいるような人たちも一定数います。変化に対してワクワクしたり期待感をもっている人たちはどのようなことを考えているのか、その心の内が知りたいです。
AI関連技術が発展して未来予測が楽しくなったという事情はもちろんあるのですが、それだけではないと思います。そうした人びとは、こうしたテクノロジー環境の下で自分は何をしたいのか、自分には何ができるのか、ということを考えているのかと。
私が敬愛する心理学者でナチスの強制収容所のサヴァイヴァーであったヴィクトール・フランクル氏は、『夜と霧』という本でこんなことを述べています。ユダヤ人であった彼はナチス・ドイツによってアウシュヴィッツの強制収容所に送られます。そこでは次々に同胞が殺されていく。彼はずっと、「なんでこんなに辛いんだ。なんでユダヤ人というだけで迫害されるんだ。みんな殺されてしまった、何もいいことないじゃないか」と苦しんでいたのですが、あるとき急に問いが逆転して、「自分が世界に何かを求めるのではなく、世界が自分に何かを問うているんだ」と考えるようになったというんです。
その伝でいけば、AIがどうなるだろう、社会がどうなるだろう、というのは自分のコントロールできることではない。つまり、そればかり問うていても、少なくとも自分の仕事にとってはあまり意味がない。だったら、自分のほうが問われていると思って、「こういう社会の中で、お前は本当は何をしたいんだ」ということを考えてみる、と。
――社会に対して「これからどうなるんですか」と問うのではなく、社会から「どうなりたいんですか」と問われている、と考えるんですね。
はい。たとえば、出版業界で考えてみましょうか。出版業界って斜陽産業の代表格のように言われていますよね。実際にそうなんですが。とくに私が書いているような本、人文系の本の売れ行きはかんばしくない。なかなか売れない。
たとえば、マーケット規模に興味がある人は、マーケットが小さくなったら別の場所に移ったり別の業種に手を出したりするでしょう。でも、出版自体が好きな人は、こんな時代だからこそ、という形で仕事を創出することができるかもしれない。この数年で、私の友人知人たちが、独立系出版社とかひとり出版社と呼ばれる、小さいけれど優良な出版社をいくつも立ち上げました。もちろん二兎を追うことは難しいから、「出版で年収100億!」というのは無理があるかもしれない。でも、そうやってこだわりとか好きなものを生かす方法は常にあります。
自分のプレイスをどう切り替えていくか
――社会から「自分が何をしたいのか」問われていると考えれば、確かに無駄に悲観的にならなくて済みそうです。実は自分は「AIの時代だから」という理由でプログラミング言語を勉強しようとしたのに、あまり面白くなくて挫折した、というお恥ずかしい経験があるのですが、当時の自分は「社会に問われている」という認識があまりなかったように思います。
プログラミング言語をやってもいいと思うんです。その時代にプログラミング言語を勉強する、というのはその人なりの答えなわけじゃないですか。そう考えて取り組めば、仮にそれが無駄骨に終わったと感じられたとしても、それが自分の答えだったんだと納得して、次はどう答えようかと考えられる。でも、「みんながやれと言ってるから、やらなきゃいけないかな?」という感じでやっていると、いつまでも答えがもらえない、ということになりかねない。そこがフランクルのいう、世界に問うてばかりの人と、自分が世界に問われているんだと感じる人の違いだと思います。
大事なことは、あまり効率性を重視しすぎないことだと思います。プログラミング言語をやっても、いつかどこかで陳腐化しますよね。その上手くいかなかったときに、「それでよかったんだ、少なくとも自分はひとつの答えを出したんだ」と考えられればいい。でも効率性の神話にとりつかれていると、「時間がもったいなかった」と感じてしまうでしょう。
――なるほど。
これから先、テクノロジーと人間の仕事の境界は曖昧になっていくと思います。その変化によって仕事を失うことは普通に起こるでしょう。そういう時代だからこそ、自分が何をやりたいのか、何が快適なのか、ということを問い直してみればいいのではないでしょうか。そうすると、生活の拠点であるファーストプレイスが重要であることはまあ当然として、セカンドプレイスとサードプレイスの比重が変わってくるという人も多いと思います。
AIそのものに対する対策というよりは、自分の人間的な体力というか、上手くいかなかったときの転び方と起き上がり方というか、そういうことの方が大事なんじゃないかなと思います。そういうことを考えなくて済んだのは、ひょっとしたら戦後の高度成長期の役所や大企業においてだけだったかもしれない。むしろ明治以降ずっと激動の時代が続いていると考えたほうがいいかもしれない。実際、意外と人って色々と仕事を変えているんですよね。
いまはもうそういう時代だと割り切って、いかに自分のプレイスを確保するか、ということが大事だと思います。だんだんAIそのものから話題が逸れていって申し訳なかったですが、最後に強引に話を戻すと、今回のAIブームを奇貨として、自分のプレイスをどう確保するかということを考えるきっかけにすればよいのではないかと思っています。
取材・執筆:園田菜々 編集:松尾奈々絵(ノオト) 撮影:二条七海