「カントが言ったからどうした?」哲学“対話”の実践者・田代伶奈と哲学のあり方を考えた

執筆者: 小池真幸

「カントが言ったからどうした?」哲学“対話”の実践者・田代伶奈と哲学のあり方を考えた

執筆者: 小池真幸

「哲学」とは何だろうか。

「役に立たないことをひたすら考える」こと?

「何やら難しそうな文献を読む」こと?

事実、いわゆるアカデミズムにおける哲学「研究」では、現実社会とは乖離したように見える問題についての、難解な文献解釈がメインでもある。

しかし、ソクラテスが問答を通して人びとに「無知の知」を自覚させることに執心していたように、哲学の本質は「対話」でもある。

上智大学哲学研究科博士前期課程を修了した田代伶奈さんは、「社会に生きる哲学」を目指し、学校や街で、「哲学対話」と呼ばれる哲学の実践活動を行なっている。「自分の言葉」で「哲学」することの重要性を説く田代さん。哲学を通して「当たり前を疑う」ことの意味から、哲学「対話」の意義、「安心」と「自由」の関係まで、徹底的に議論した。

「当たり前」を自覚し、「考える」。哲学とは、思考プロセスそのもの

―まずは、「哲学とはなにか?」という議論から入っていければと思います。田代さんは以前、「哲学とは、当たり前のことに疑問を投げかけることだ」とおっしゃっていましたが、どういうことなのでしょうか?

田代伶奈さん

記事を読んでくださってありがとうございます。ここでいう「疑問を投げかける」とは、「懐疑的になる」のではなく、「問う」ことです。もっと簡単にいうと、「考える」ということ。「考える」というのは、自分自身に問いを投げかけ、それに答えようとするプロセスに他なりません。これは「疑う」という言葉が持つイメージとは裏腹に、すごくポジティブな営みだと思っています。

その上で、「問う」方向は2つに分かれると思います。ひとつは、自分の「内部」。「私はどう生きていこう」、「私はどう働きたいんだろう」、「私にとって幸せとは何か」…こうした自己反省・リフレクションによって、自分自身のことをより深く知っていく。たとえば、なんとなく「30歳までに結婚したいな」と思ったときに、「待って、私はそもそもなんで結婚したいんだろう?」と考え、その理由に自覚的になることです。

もうひとつは、他の人や社会など、自分の「外」に問いを投げかけることです。「人はわかりあえるのか?」、「私たちは本当に自由なのか?」、「なぜルールは存在するのか」…このように一度立ち止まり、自分の外にある「当たり前」に問いを投げかける。単に私にとっての「自由」、「愛」、「幸せ」などという話だけでなく、「自由とは?」「愛とは?」「法とは?」と探究することにより、真理を追い求めていく営みです。これらは、他者と共に問う意味のあるものだと思います。

―哲学ならではの、「問う」際に留意すべき点はありますか?

「何を思うか」ではなくて、「なぜそう思うか」。理由を語ることが、「哲学」だと思います。「正しさ」ではなく、「プロセス」が大事。「深い」意見であれば良い、というわけではありません。

たとえば、「人を殺してはいけない」と、なんとなくフィーリングで「主張」するのは哲学ではない。「なぜだめなのか?」という理由を、徹底的に考える。思考しなければいけないポイントはたくさんあります。「自分が殺されたくないから」という理由だけでは不十分です。「私は殺されても良いので、他の人を殺します」と主張する人に反論できませんから。あらゆる角度から、理由を考える。そのプロセス自体が「哲学」なんです。

哲学対話のキモは、自分の言葉で話してもらうこと

―ありがとうございます。続いて、ここまで議論してきたような「哲学」を実践する場として、田代さんが手がけられている「哲学対話」について議論していきます。これはそもそも、どういったものなのでしょうか?

哲学対話とは、文字通り、哲学的な「対話」です。たとえば、私が教えている中学校では、中学生と一緒に、「平等ってなんだろう?」「自由って何?」「愛って何?」といった問いで、自由に対話をします。

哲学の知識を教えたりはしません。自由大学で行う大人向けの哲学対話の講座では、議論の補助線となるような概念を、事前に簡単に講義することもあります。「自由とは何か?」というテーマの回に、「今まで哲学で『自由』がどう議論されてきたか」を紹介したり。自由大学には大学生からビジネスーパーソン、さらには現役を引退した年配の方まで、色々な方が参加してくれていますね。哲学対話は、いわゆる文献研究をはじめとした「哲学研究」に対置されることも多いですが、「当たり前を疑う」とか「探究する」という本質は同じだと思っています。

―基本的に、「何でも話してOK」という前提で議論してもらっているのでしょうか?

はい。ただ有意義な対話の場にするために、ルールを設けるようにはしています。私が、哲学対話のファシリテーターをする時の基本的なルールは「自分の言葉で理由を挙げて話す」、「“人それぞれ”はなし」、「分からないことはちゃんと『分からない』と言う」の3つ。もちろんルールの内容は参加者の属性によって変えています。

なかでも「自分の言葉で理由を挙げて話す」ということは、特に大切にしています。例えば「カント的にはこうでしょう」とか言われたら、カントを知らない人は「あ、そうなんですか…」としか言えず、むしろ自分の知識不足を恥じて議論に参加しにくくなってしまう。対等でないと、いい対話の場にはならないので、そこは徹底したいと思っています。

つい人の言葉で語ってしまっている人がいたら、「あなたはどう考えるんですか?」と突っ込む。ファシリテーターとして権威主義的なものを排する役目を果たすことを心がけているんです。「カントが言ったからどうした?」って感じですよね。

もちろんカント哲学も、私たちが参照するべき思想の一つではあると思います。だけど、目の前でいま他者が考えて表現していることとか、自分が考えたことも、同じくらい意味を持っていいと思っています。

―そもそも、なぜ「対話」なのでしょうか?一人で黙々と考え続けるという手段も、取れなくはないのかなと思うのですが。

人間は、他者とともに、この社会に生きています。「社会」なんて実態があるわけでもなく、「私たちがいま、人とともに動き、話していること」でしかないと思うので、その人たちと一緒に考えないという選択肢はあり得ないのではないでしょうか。あとは、一人だと考えが深まりにくいと思います。考えたことを、誰かに「こう考えたんだけどどう思う?」と聞いたら、同意されて意見に自信が持てることもあるし、「でも、こうも考えられると思う」と違う意見が返ってくることもある。経験も考え方も違う人と議論することで、多様な考えが生まれ、化学反応が起きる。哲学書を読むことも、過去の偉人と「対話」している点で、本質的には同じです。何かから刺激を受けることで、それまで考えもつかなかったことを思いつけるんです。

―普段の哲学対話のなかでも、そうした「対話」の効用を感じることはありますか?

すぐに効用を感じるということは難しいですが、じわじわと感じることはあります。特に小中学校などの教育現場では、普段の教室での力関係から離れ、自由に語ってもらうことで、「ぶつかった時も、対話で克服する」という手段の効用を分かってもらえることもあります。実際は、対話中にテーマやコミュニケーション自体がしんどくなって出ていっちゃう子がいたりなど、うまくいかないこともあるんですけどね。企業研修で哲学対話がとり入れられるケースもあるのですが、とにかく本音で話せる場が今の社会にない気がしています。

―それは、日常とはかけ離れた、公益性の高いテーマだからなのでしょうか?哲学者のハンナ・アーレントも、議論する人の経済的・社会的な利害関係がない状態で、はじめて公共に資する議論が実現できるという旨のことを言っていました。

そうですね。属性、知識量など、あらゆる前提条件から離れるからこそ、活発な議論が生まれる。一度、引きこもりやいじめなどが原因で働けなくなってしまった人が集まる就労支援センターで哲学対話を行ったことがあって。それがすごくいい経験だったんです。

彼らは、「昨日どんなテレビ観た?」といった「知識」を前提とした会話やコミュニケーション能力でジャッジされる社会から、排除され、傷ついてきた人たち。だから普段は、日常会話も難しい。だけど「働くとはなにか」というテーマで哲学対話を行ってみたら、普段では考えられないくらい話してくれたんです。

そのとき初めて、「哲学って、本当に普遍的なんだな」と思いましたね。たとえば「どこで働きたいですか?」とか「いつから働きますか」という質問だと、その人の能力や学歴といった要素が絡んできてしまいますが、「働くってなんだろう?」という問いなら、誰でも話せるんです。哲学対話は全ての人に開かれているし、哲学科の人とカントの話をする時よりも深い話ができることもあるんだなと感じました。

「自由」なき「安心」を享受してもいいのか?哲学は私たちに選択肢を与え、主体化させてくれる

―ここまで、「当たり前を疑うこと」や「哲学対話」の意義について伺ってきました。結局、哲学は私たち人間や社会に、どういった影響を及ぼすのでしょうか?

うーん。費用対効果や経済効果の面では、すぐに役には立たないでしょうね…。だけど、哲学って、人を「自由」にしてくれると思います。私たちは、身体的・物理的には、不自由な存在です。日本からすぐ出られないし、パッと宇宙にも行けない。刑務所に入ったら、なかなか出てこられない。唯一人間が自由であれるのは、「思考」の領域だと思っています。

考えることで、私たちは自由を感じることができる。いくら身体的に、私が私であることや、自分の名前を持っているってことが制約されていたとしても、私が何を考えるか、何を大切だと思うかは、どこまでも自由です。

―「考える」対象について、冒頭で、自分の「内部」の当たり前を問うものと、「外部」の当たり前を問うものの2種類があるとおっしゃっていました。両者はリンクしているようにも思えます。たとえば、自身の原体験に基づき、社会問題の解決に取り組む起業家の方もいらっしゃいますよね。

おっしゃる通りです。むしろ、リンクさせなければいけないと思います。「内部」と「外部」を繋ぎ、自分自身の問題を社会の問題として捉えられるように導くのが、私たちに大切な「想像力」だといえます。

たとえば、「なぜ自分は給料が低いのだろう」という悩みを、自分の責任だと捉え苦しんでいる人って、いると思うんです。「自分の給料が低いのは、頑張りが足りないからだ」と、自責してしまうような人。

しかしそこで考えを止めずに、搾取を強いてくる社会構造に考えを巡らせれば、「これは私の問題でもあり、社会の問題でもある」と気付ける。個人の問題と、他者や社会の問題をリンクさせる想像力は、すごく大切だと思います。少し哲学の話とずれましたが。

―なるほど。その上で社会で生きる上で哲学にはどんな役割があると考えますか?

哲学的な対話によって「自分とは何か」が明らかになることがあると思います。同時に相手のことも明らかになる。例えば、「お前はいい会社に勤めてるからいい奴」とか、そういう判断ではなく、「あなたの考えに共感するよ」、「ここはあまり合わないけれど、こういう考えの人が好きだから一緒にいるよ」といった“本質”の部分で向き合えるようになるはずです。

さらに、「自分とはなにか」というアイデンティティを語る時、外的なものだけ頼ってしまうと、今問題になっている排斥主義や差別主義に繋がる恐れがあると思うんです。自分のアイデンティティが、たとえば「日本人である」とか「男である」とかだったらどうでしょう。もちろん私たちはある特的の文化の中で生き、環境に依存しています。でも、「人間とは何か?」とか「社会とは何か?」と言う哲学的な問いを考えると、単に自分や他者の思考回路が明らかになるだけでなく、私たち人間の本質を、探ることができる。そうすると、世界の見方はだいぶ変わってくるのではないでしょうか。

そうしたことにも、哲学が役に立つと思います。

―とはいえ難しいなと思うのが、考えることには終わりがないじゃないですか。終わりがない問いを追い続けるのは、苦しい。一方で、社会の規範とか何かしら答えが与えられた方が、安心できる面もあります。ただその「安心」を「自由」と勘違いしてしまうこともありそうですね。

考えることって本当に難しいですよね。しかも危険なことでもあると思うんです。安心と自由って同じように語られることもあると思いますが、権力や常識的な価値観に守られている、つまり「問いがない状態」はとても「安心」だと思います。社会規範にしたがって生きることは、ある意味すごく居心地がいいんです。

でもそれって、どこかで限界を迎えると思うんですよ。いくら独裁国家で圧政下に敷かれているような人たちが安心した生活を送れていたとしても、「いま自分は自由なのかどうか」ということを自己反省できていない、許されていない。そうした状態だと、いつか「選択できない」という障害に当たってしまうのではないかと思っています。

―「選択できない」って、本当に「不」自由だと言えるのでしょうか?たとえば自分の母親が、「就職」という選択肢を考えたこともなくて、ずっと専業主婦として生きてきた末に「幸せだ」と言っていたときに、「家庭に追いやられ、自由を奪われている」と弾劾できるのでしょうか?自分にはできないかもしれません。

うーん…。弾劾するかどうかは別問題です。だけどやっぱり、自由って「比較」でしか語れない気がしていて。たとえば他の道と比較検討したうえで専業主婦の道を選んだのであれば、いいと思うんです。だけど本当は存在するはずの選択肢を与えられなかった場合、それを「自由」とは描写できないと思うんです。

考えずにひとつの選択肢を選ばざるを得ない状況を強いられているとしたら、それは社会の側に構造的な問題があると思います。不自由であることに自覚的になれないのは、檻の中で飼われているのと同じです。別の可能性に賭けたり、檻から出ようとする思考がないと、主体性が保てず、私を「私」だと言えなくなってしまうと思うんです。

―論理的には分かるのですが、そうした「檻の中で飼われている」ように見える人びとに「なんで構造的な問題なんか知らなきゃいけないの?いま幸せに生きられているんだから、別に良いじゃん」と言われたら、反論しきれない自分もいて…。

確かにそういう気もします。けど、私は「私」として生きているだけではなく、社会的存在でもあることを踏まえると、そうとも言えなくなるのではないでしょうか。哲学的な思考というか、私もポリシー的な話に寄りますが、人間が他者とともに生きる存在である以上、「自分さえ幸せならそれでいい」という価値観にはなれないと思うんです。他者や社会のことを「自分とは関係ない」と無視し続けていると、最終的には社会が自壊していってしまうでしょう。

とはいえ、そこまで大げさな話にせずとも、「考える」ことの楽しさ、「自由」の幸せを伝えて、「みんなで生きていこう」と巻き込んでいくだけでも、哲学には十分意味はあるのかなと思っています。

―ある意味、「緊急事態が起こりうる」ことを自覚する、ということなのかもしれませんね。もちろん基本的には考えなくても生きていけますが、たとえば途中でセクシュアリティが変わるとか、いつ自分の問題として降ってくるかは誰にも分からない。だからこそ、「考える」ことに価値があるとも言えるのではないでしょうか。

その考えを、もっと自分の生活圏内に落とし込める気もしています。毎日、予想外のことが起きるじゃないですか。理解できないような人が現れたり、よく分からない仕事が降ってきたり、急に人が亡くなったり、結婚したり。そのときに、あらかじめ自分の中で思考を固めておくと、困難さが緩和されるはずです。一面的に考えていると緊急事態に対応できないですよね。色々なものに対して、さまざまな角度から検討し、自分の価値基準や判断基準をある程度持っておいた方が、生きづらさが減ると思うんです。そうした意味でも、「哲学」することをもっと広めていきたいですね。

執筆者:小池真幸
93年生まれのライター・編集者。AI系スタートアップのマーケターを経て、現職。関心のベクトルは、人文知をバックグラウンドにビジネス・テクノロジーを考えること。
Twitter:@masakik512
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